【海と毒薬】誰もが死んでいく時代や

海と毒薬 (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)

遠藤周作の著作の中で私的にはベスト1,2を争うこちらの作品。

誰もが一度は聞いたことのあるタイトルではないでしょうか。

「海と毒薬」

内容は、太平洋戦争中に捕虜となった米兵が臨床実験の被験者として使用された事件(九州大学生体解剖事件)を題材としたもので、あらすじは以下の通り。

F市の大学病院の医師である勝呂。彼は、助かる見込みのない患者である「おばはん」が実験材料として使われようとすることに憤りを感じるが、教授たちに反対することが出来なかった。当時、橋本教授と権藤教授は医学部長を争っていたが、橋本は前部長の姪である田部夫人の手術に失敗し、死亡させてしまう。名誉挽回するために、B29の搭乗員の生体解剖を行い、勝呂と戸田も参加することになる。
wikiより引用)


この本を、内容の上を滑るように読むだけでは、ただの暗くて救われない話で終わってしまいそうな気がするのですが、遠藤氏がこの作品に込めたかった思いを掘り下げていくと、とても興味深いものがあります。


時代の移り変わりに揺れる大衆心理

過去記事で最近川崎で起きた事件に触れるにあたり、私は「大衆心理が怖い」と書きました。

それは、この作品を思い出してのことでした。

abomi344.hatenablog.com


過去に遠藤氏は自身のエッセイにて、戦前と戦後における大衆心理の変わりようが自分は怖ろしかった、というようなことを書いています。

遠藤氏がカトリックのクリスチャンであったことは有名ですが、氏は満州から家族で引き揚げて来た時に両親が離婚し、その後母が受洗した流れで自身もクリスチャンになりました。

つまり、遠藤氏にとっては自分の意思でキリスト教徒になったというよりも、理由としては子供の頃に母親から薦められたからという部分が大きく、そのことが後に遠藤氏のアイデンティティ形成に影響を与えることになります。

遠藤氏は、戦時中には「お前は敵勢宗教を信じるのか」「非国民だ」と言われて憲兵に見張られる日々を送り、かと思えば戦争が終わるとカトリック文学研究のために慶応大学生として戦後初のフランス留学を果たしています。

この2つの相反した出来事が主となり、後に遠藤氏の中で大きな葛藤を生むのです。


遠藤氏はこの頃に抱いた疑問や葛藤をその後の作家人生におけるテーマとして生涯持ち続けていたようです。

それを作品にしたものの1つがこの「海と毒薬」。

評論家の山本健吉という人がこのタイトルについて、

「運命とは黒い海であり、自分を破片のように押し流すもの。そして人間の意志や良心を麻痺させてしまうような状況を毒薬と名づけたのだろう」

と言っているそうです。


主人公の勝呂は、捕虜に対する人体実験が罪であることを知っていました。

でも、作中でも度々呟かれるように、あの時代が「誰もが死んでいく時代」だったのだと思うと、平和な時代では自分の中に確固として持っていたはずの倫理観も、どこか曖昧に揺らぎ、薄れていってしまうのかもしれません。

極端な言い方をすれば、「赤信号皆で渡れば怖くない」という心理に近いかもしれない。

皆が死んでいき、また皆が殺す時代なのだから、人の生き死に対して鈍感になってしまうのも無理ないでしょう。


そんな中で行われたアメリカ軍捕虜の解剖実験が戦後大きく取り上げられ、関係者たちは断罪されます。

当然と言えば当然のこと。

むしろ、戦時中が狂った時代だったのであってこれが正しい姿なのです。

しかし、作中の主人公である勝呂や、他の関係者達の掘り下げられた背景を知った読者は、その「正しい姿」に複雑な心境にならざるを得ないと思うのです。

自分がもし同じ立場に立たされたら、果たして時代のうねりに飲み込まれずに倫理的な行動を貫けるだろうか?と。


昔書いた雑なレビューものっけとく

さてさて、内容についてもう一度改めて深く触れていくのもいいなと思ったのですが、過去に別のHPで書いた感想から大した変化はないと思うので、以下より当時の記事をそのまま抜粋します。

かなり支離滅裂だし、多少の重複がありますがあしからず。


《過去記事より》
◎ついでに「海と毒薬」も読み終えました!短い話なので結構すぐに読める。箱根旅行中に読みました(暗い!!)。戦時中の大学病院で米軍捕虜を人体実験で殺したという実際にあった事件をテーマに書いている小説です。印象的な言葉がありました。まず、戦時中の病院でもう先が無い肺結核の患者を診ながら主人公の勝呂を含む研修医たちが話した「誰もが死んでいく時代や」という台詞。誰もが死んでいく時代や。結核で死ななくても空襲で皆死んでいく。病院で死ねるだけ幸せ、もっと言えば、死ぬと決まっているんだから自分の体を医療発展の糧として使われて死んでいけるのなら別に不幸じゃないじゃんという、生命が関わる事案であるにもかかわらず、言葉のとおり誰もが死んでいく時代だからなのか、すごく乾いた台詞。でもその考えを言葉にするまでのそれぞれの思いや考えも丁寧に書かれている。時代が人を変える。環境が人を変える。普遍の心理を持つにはどうすれば良いのか。逆に、どうして人はこうも裏返したように本来の人格とは反対の行動ができるのか(良い面にも悪い面にもひっくり返る気がする)。ということを遠藤周作が自分の命題として考え続けていることが、エッセイと合わせて読むととても伝わってきます。

◎「海と毒薬」に関しては医療関連の話なので、もしも自分が生きた人間で実験しろと言われたらどうするのか?というリアルな想像はできなかったけど、もっと違うケースで同じ問題をたくさんの人が抱えながら生きているとは思う。時代の空気にのまれるしかない環境で、どこに良心を置けば良いのか、という問題。よく日本人には確固たる宗教がなくても良心的な選択ができるとか言いますが、それも厭な言い方をするなら「ぬるま湯」の環境にあってこそできることだと思うんだよね。例えば大震災の後も強盗がほとんど起きないし皆ちゃんと並んで買い物したり配給を受けたりしていると言いますけど、これが他県から物資が全く届かない状況に長期間陥ったら、初めはともかく、だんだんと人の行動も変わってくると思います。もっと率直にわかりやすい問題に置き換えるなら「殺さなければ殺される。でも、殺してはならないという良心に従って、たとえ自分の親夫妻子供友人が殺されてもじっと黙って堪え続けるのか。誰もが殺す時代でも、それは間違っていると大声で主張し続けることが果たしてできるのか」ということ。戦争中は現実にそういう時代だったんですよね。

◎マイノリティがマジョリティになった瞬間に、またその逆であっても、大衆の意見に押し流されていくのは自分も含めて人間の性だと思うんですけど、遠藤周作は戦前戦後の大衆心理の変わり様を実際に見ている人なので、余計にこの問題について考える必要があったんだと思う。キリストもエルサレムに入城する時は民衆に大歓迎されたのに、ほんの1,2週間後には「殺人鬼を解放して、代わりにキリストを処刑しろ」と叫ばれるくらい多くの人たちが表裏返したように態度を変えてしまいましたから。聖書のあのシーンは読むとすごくゾクッとします。民衆に向かって治政者が「殺人鬼とキリストどちらを解放するか?」と問いかけた時に、民衆がこぞってキリストを「十字架にかけろ!十字架にかけろ!」と叫ぶんです。これってすごく怖いことだし、現実にあり得るのか??と思っていたんだけど、そうか戦前戦後はそういう時代だったんだ、今でもそういう状況に人々が置かれたら同じ事が起こり得るんだと思いました。

◎でもだからと言って、遠藤周作はその揺るぎの無い良心の置き場が「宗教」だとは一言も言っていないです。それは勘違いしちゃいけないところだと読後に他の人のレビューをひたすらググってて思いました(暇人)。「日本人には無宗教者が多いから罪の概念に揺らぎがあると作者が言っているようで~」という感想があったのを見て、えっそこが要点じゃないでしょと思いまして。それに、むしろ遠藤周作は、作中に登場するヒルダというおそらくキリスト教徒である女性のことを「聖女ぶりやがって」と思っている同じく登場人物のうちの一人である日本人看護師の考えにどちらかというと同調していると思う。ヒルダは、手の施しようが無い患者に対して上司の命令で安楽死させようとする看護師を「罪深いことと思わないのか?神が怖くないのか?」と言って責め立てます。私もこういう言い方されたら、うるせえっ、てなると思う。文化が違うんだよ、立場が違うんだよ、環境が違うんだよ、そのくらいわかれよと、きっと思う。遠藤周作が書きたかったのは、さあ皆キリスト教を信じましょうみたいな安易なことではなくて、社会的道徳観念においても、宗教的観念においても「罪」と言われることをした、せずにいられなかった、そういう立場に追い込まれた人たちの葛藤を、苦しみの深さを書きたかったんだと思う。選んだ結果が正義的でなかったという理由で存在を黙殺される人たちが、その選択に至るまでの複雑な過程にスポットライトを当てたかったんだと思う。だから「沈黙」では聖職者に棄教させ、「海と毒薬」では医師に人殺しをさせたんだと思う。そして遠藤周作は「神は例えかたちの上では沈黙していたとしても、その人たちが抱えていた哀しい事情に心を向けてくれないわけがない」というところに希望を見ていたんだと思う。罪を犯した以上、社会的な罰は当然受けるべきだけれど、私もそう思う。それが希望ではなく、真実だと信じたい。

◎そういえば、ググって見つけた「海と毒薬」というタイトルの由来ってなんだろう?海も毒薬も出てこないのに…っていうレビューでおもしろかったのが、海に毒薬を垂らしてもすぐに消えてなくなってしまう。つまり「毒薬=罪」なんだろうね。っていうもの。これで当たりなんじゃないのもう。「海」が時代とか、立場とか、小さな人間が置かれた一人ではとても太刀打ちできない環境であったとして、その中では毒薬が些細なもののように感じられることが大いにあり得るだろう、ということ。それを一体誰が責められるんだろう、ということ。社会的な罰を受けても、神がどんな裁量でどんな判決をするのかは、人間にはわからない。遠藤周作はそこに小説を書く猶予を感じたのでは。悪人には救いがないというのは人間の考えることだから。

◎でもよく考えたら、海は出てきますね。舞台が九州だし。語り手の一人である勝呂という研修医が皆が死んでいく時代に海に向かって同僚から教えてもらった詩を詠むところがじんわりきます。好きでした。

◎と、まあぐだぐだと書きましたけれども。こうして並べてみると、「沈黙」と「海と毒薬」には根底に共通のテーマがあるんですね。おそらく他の作品も根本的には同じ問題を扱っているんだと思う。遠藤周作の生い立ちと、生きた時代と、環境と、それらを総合し、生涯を通して考えずにはいられなかったことを常に作品のテーマににしている。すごく壮大な作家人生だなあと思います。やっぱり問題意識や渇望、葛藤、怒りや苦しみがないと小説って書けないと思うし。村上龍も言ってたよ(たしか)。そういう意味で、遠藤周作が抱える問題意識は共感できる部分が多くて、私にはすごく興味深いのです。


何度も言うけど別に犯人擁護じゃないよ

改めて何故この作品を読んだ時の感想と、最近の事件を見た時に感じたことがリンクしたのか考えてみた。

「一人で死ね」論争しかりメディアが煽ってるところもあるんでしょうけど、私はやっぱり多くの人たちがまとまって一つの意見を叫んでいるという状況が怖いのだと思います。

しかもその意見が、少数の人を強制的に弾きだすことを是とする“負の意見”であり、少数の人とは社会的に「足手まとい」とされる人達のことだと感じられるから、余計に恐ろしいのです。

世の中全体がそういう論調に傾いてくことは、すでに他の人達も危惧して発言しているように、最終的にはナチス選民思想にも繋がることだと思います。


ちなみに私は過去のレビューで「遠藤周作はその揺るぎの無い良心の置き場が「宗教」だとは一言も言っていない」と書いていますが、ここに少し追記したいことがあります。

私の知る限り、何かを信じるということをちゃんと自分という人間の根っこに植え付けられた人というのは、皆とても理性的な人ばかりです。

それはどういうことかと言うと、例えば感情では絶対に許せないと思うようなことを、理性で許すことのできる人たちです。

そういう人たちは、例え心から信じる対象があったとしても人生にはいくつもの迷いがつきものであることを知っています。

だから、「揺るぎない良心の置き場」というものは、きっといくつもの迷いの中で何度も何度も選択を迫られ、決断し、その繰り返しを経て、感情よりも理性を優先できるようになったところにあるのだと思います。

なんか回りくどくなってしまったけど、要するに、信仰があるから必ずしも正しい決断ができるわけではないと言いたいのです(信じていても間違える人はたくさんいます)。

しかし、どのような状況に置かれても限りなく良心に近いかたちの決断ができる人というのは、何らかの信念を持っている人が多いのではないしょうか。


改めてこの本に目を通して、そんなことを考えたのでした。