もうすぐ11月が終わっちゃうんだってよ・・!
時の流れが早すぎてただおののくしかないabomiです。
先日の記事で、母と二人で出かけた話をした。
毎年この時期になると母と一緒に必ず行くところがあるので、今日はそのことについて書きたいと思う。
叔父の自殺
突然だが、私は4年ほど前に叔父の一人を亡くした。原因は自殺だった。
当時うちの母は、遺された甥たち(私から見て従兄弟)のことをとても気に病んでいた。
母親(母の実姉)は病気でとうの昔に亡くなっているので、甥たちはこれで両親とも亡くしたことになる。
その上父親は自殺して、これからのこの子達はどうやって生きていくんだろう、と。
どんな状況でも生きていかなければならないことには変わりないし、甥たちはもうとっくに大人で保護者が必要な年齢でもないので過剰な心配なのかもしれない。
それでも、親が自殺したという事実を、この先何十年も背負っていく人生が辛くないはずがない。
それを叔母の立場として心配する母の気持ちは、私にも何となく分かる気がした。
11月は死者の月
話が変わって、キリスト教カトリックの暦では11月を死者の月と呼ぶ。
端的に言うと、死者のために祈る、または死者に取り次ぎの祈りをする月なのだ。
そして、一部のカトリック教会ではこの時期に“自死された方々のためにささげる追悼ミサ”というものをやっている。
このことを、叔父が亡くなった年に知人から教えてもらい、興味を抱いたので早速母を誘って行ってみることにした。
それからすでに4年が経つが、毎年母とこのミサに行くことが習慣になっている。
初めて自死者のための追悼ミサ参加した時のこと。
教会に着くと、入口でスタッフの方に自分の名前と、亡くなった人の名前と、お祈りの言葉を書く小さな紙を渡される。
これは信者・信者ではない人、関わりなく名前を書いて良いもので、この紙をまとめてミサのときに祭壇に奉納して祈る。
司式は東京教区の司教である幸田神父様。
そしてミサの参加者のほとんどは、おそらく親族や友人などの近しい人を自死で亡くしている人たちだった。
ミサ中は、抑えきれない嗚咽を漏らして泣く人がちらほらと見られたのできっとそうだと思う。
ミサを取り仕切る司教様は、説教の中で
「自死するほどまでに精神的に追い込まれた人の苦しみを想う」
と仰っていた。
このことについて色々と考えたことがある。
遺体がない・・・
私が何故わざわざこのミサに行こうと思ったかと言うと、単純に興味があったのと、甥っ子を気にかける母を慰めたいという気持ちがあったからだ。
そして、叔父の葬式に参列した時に私自身、どうにも遣る瀬ない・・と感じたいくつかのことがあったからだった。
叔父の葬式は、遺体が無い奇妙なものだった。
発見が遅れて遺体が腐敗し始めていたから、先に火葬を済ませる他なかったらしい。
親族の中でも内々だけが集まって、ひっそりと火葬をした後で、お通夜→葬式という段取りになった。
私は、叔父の死因が親族の中でも近しい者にしか伝えられず、その他の参列者には知らされなかった(隠された)ということがどうにも引っかかった。
会場には大きめの遺影がドーンと置かれ、その周囲には献花の他に棺がないことを誤魔化すかのように大袈裟な花や故人の思い出の品が飾られていた。
私もそれ以前に何度か仏教式の葬式に参列したことがあったけれど、葬式らしい静謐な雰囲気が感じられないなんだか奇妙な式だったし、隠したところで何故遺体が無いのかは分かる人には分かったはず。
そこで私は「ああ、自殺って隠さなきゃいけないんだ」と思ったのだ。
もちろん時と場合と人にもよると思うが、叔父の場合は身内にとって公にしづらいものだったのだろう。
そしてもう1つ、叔父の死に対して怒っている親族が多かったことにも私は少なからずショックを受けた。
特に、叔父の妻が亡くなった後もずっと叔父と甥っ子たちのことを気にかけていた叔母(母のもう一人の姉)は、遺書に「孤独だ」とか「生きていても迷惑をかけるだけ」などと書いて死んだ叔父のことを「子供がいるのに何が孤独だ」と言って責めていた。
でも叔母の気持ちもよく分かる。叔父はあまりに身勝手だった。
妻が亡くなった後に、寂しさに耐えられなかったのか、一周忌が終わらないうちに別の女性と暮らし始めるような人だった。
息子達にも子供の頃から冷たくあたり、暴力もあったと聞いている。
喪主をした長男が、挨拶の場で「自分らにはこんな風に笑ってくれる親父ではなかった」と遺影を指して言っていたのをよく覚えている。
快活で人を楽しませるのが好きな長男が開口一番でこんなことを言わずにはいられなかったほど、叔父との確執が深かったことを知った。
遺族を苦しめる死
自死にも色んなかたちがあるとは思うが、叔父の場合はまず前提として叔父の身勝手があり、周囲から人が離れていって、そして「孤独だ」と言って死んでいった。
学生が虐められて自殺してしまうのとも、ブラック企業で働き詰めになり自殺してしまうのとも違う。
叔父の死は他の例に比べれば自分の匙加減でいくらでも回避できたことが原因だったから、きっと周囲の人は怒っているのだ。
私は、叔父の葬式の様子を見ていて、最後の時に別れを惜しんでちゃんと悲しむことができないのは不幸だと思った。
葬式というのはそういうものだと思っていたから。
故人の冥福を祈るのはもちろん、遺族や関係者がきちんと故人とサヨナラをして、踏ん切りをつけて前に進んでいくための儀式。
それなのに叔父さんの葬式はどうだったろう。
遺族の間には、特に息子達の中には悲しみだけでなく恨みが残った。
長男は実際に、通夜の夜に父親を恨んでいると言ったそうだ。
母からその話を聞いた時、詳しい事情は知らないけれど、なんて遣る瀬ない・・と思ったのだ。
キリスト教における自殺
そもそもキリスト教では自殺は禁忌とされている。
昔のヨーロッパでは、葬儀をすることを教会側が断ることをあったほど、自殺者は毛嫌いされていたらしい。
理由は、神から与えられた命(自分のものではない)を自死という形で放棄することは大罪であると考えられているからだ。
そのような歴史がある中で、今や自殺大国とまで呼ばれる日本において(ここ数年は統計上は減っているようだけど)教会があえて“自死者のため”と銘打ってミサをすることに私は大きな意義を感じている。
(仏教とか、神道でもこういうことってしてくれるのかな? 詳しくないのでわからない・・)
事実、初めてミサに与った時に思ったことは、参加する遺族や関係者の方々は改めてこの場で自死者を想うことで、人目を憚らずにようやく心から悲しむことができたのではないか?ということだった。
いくら昔よりは理解が進んだとは言え、キリスト教の家系の中で自殺者が出たとなると遺族はきっと肩身の狭い思いをするのだろう。
だからこそ、口先だけで自死者のことを想うと言うのではなく、実際に教会がそのためのミサを毎年実施することは遺族にとって大きな慰めになる。
同じように、死因を不自然に隠さなければならなかった叔父のことも考えた。
周囲から見るとどれほど身勝手でみっともない死であったとしても、自ら死を選ぶまでに追い込まれた人の苦しみや悲しみを全面的に汲んで、多くの人が祈ってくれる場がある。
遺族が叔父を許すのには、まだ時間がかかるかもしれない。
だからこそ、ここに母と来られて良かったなと心から思ったのだった。
ご参考まで。
www.christiantoday.co.jp