先日の記事↑で触れた谷川俊太郎氏のバラに関する言葉について、あれは一体どこに書いてあったのかもう一度確かめたくて、それこそ10年以上ぶりに詩集”二十億光年の孤独”を開いた。
これを買ったのは10代の時だったと思う。
美しいタイトルに惹かれて買ったのだが、最も印象に残ったのはあとがきだった。
私が件の記事で思い出したのは、まさにこの文章だ。
一輪のバラは沈黙している。だが、その沈黙はバラについての、リルケのいかなる美しい詩句にもまして、私を慰める。言葉とは本来そのような貧しさに住むものではないのか。バラについてのすべての言葉は、一輪の本当のバラの沈黙のためにあるのだ。言葉は、バラを指し示し、呼び、我々にバラを思い出させる。それはまた時に、我々により深くバラを知らしめ、より深く我々とバラとを結ぶ。だが言葉自身は決してバラそのものになることは出来ない。言葉はむしろ常に我々をあの本当のバラの沈黙に帰すためにあるのではないだろうか。そして詩人が、バラを歌う時、彼はバラと人々を結ぶことによって、自らもその環の中に入って生き続けることが出来るのに相違ない。
そうして、だが、今はどんな言葉が、バラと人々を結ぶのだろう。私は強い言葉を夢見る。それは例えば、男を侮辱して、その男に拳銃を抜かせ、自らを死の危険にまで追い込むような言葉だ。それはもはや、詩の言葉ではないかもしれぬ。私はそれを先ず自らの生のうちにたずねるより他ないだろう。詩劇も、歌も、そのあとに来る問題だ。その言葉によって傷つき、血を流すような言葉、そのような強い言葉を今の私は求めている。詩人は、詩を書きながら、常に詩を超えたものに渇いているものだ。その渇きの故にこそ、詩人は詩を書くのかもしれぬ。
なんて、美しい文章だろう!
こういう良い文章を久しぶりに読むと、しかもそれが10年前の自分が良いと思ってどこかに書き留めて心の中にもずっと残っていたものだと思うと「お前!やるな!」と当時の自分を褒めてやりたくなる。
谷川氏は童謡の作詞もする人でむしろその方面での方が知名度が高いと思うけれど、何の棘もない柔らかな子供向けの詩を書く人が、実はこんなに激しく言葉を渇望しているのかということに酷く驚いたものだ。
同じようなことを、詩人であり劇作家でもあった寺山修司がこのように書いている。
少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られた時、食うべきだ、と思った。Hungry Youngmen(腹の減った若者たち)はAngry Youngmen(怒れる若者たち)にはなれないと知ったのである。
そのかわり、私は詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝飯前でなければならないな、と思った。
だが、同時に言葉は薬でなければならない。様々の心の傷手を癒すための薬に。エーリッヒ・ケストナーの「人生処方詩集」ぐらいの効果はもとより、どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉。
私は勝手に、寺山修司と谷川俊太郎は同じ詩人でも両極にいるような2人だと思い込んでいた。
童謡の作詞もする見た目も好々爺な谷川氏と、片やアングラ演劇の四天王とも呼ばれ、若くして死んだ俳優ばりのハンサム(死語)寺山氏。
それなのにこの2人が、なんか似たようなこと言ってる・・・!と当時これらの文章を発見した私は大いに興奮した。
やはり、詩人とは同じ種類の生き物なんだろうな、と人知れず思う。
詩人は、小説家とは違って短い言葉で人をハッとさせなければならない。
そういうことを職業にしている人たちが持つ言葉に対する強い渇望と鋭利な感覚は独特だ。
いつか私にも、そういう人たちが真剣に紡ぎだした詩をきちんと味わうことができるだけの理解力と感受性の豊かさが身に付いたらいいのにと思う。
早いとこ、そうなってほしい。
そう願いながら、明日も仕事なので早々に眠りにつくのだった。
zzz