【沈黙①】人間がこんなに哀しいのに

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

  • 作者:遠藤 周作
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1981/10/19
  • メディア: 文庫


遠藤周作著の”沈黙”は、私がこれまで読んできた中で衝撃的だった本ベスト3に入る本です。

もともと母が遠藤周作のファンで、自宅の倉庫に化石のようになった氏の著書がたくさんあったのですが、「なんだか難しそうだ・・・」と思うだけで手に取ることがありませんでした(そもそもすんごい汚かったし)。

それがある日ふと思い立って、遠藤周作、読んでみよう!と思ったのです。


きっかけは以下の石碑。

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これは沈黙の碑と呼ばれるもので、長崎の外海にある遠藤周作記念館の近くに立てられています。

人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです

ここに書かれているこの短い詩を見て、無性に心に響くところがありました。

それで、今ままで全くスルーしていた氏の小説に一気に関心を持つようになったのです。


遠藤周作著・沈黙

以下、あらすじはwikiより引用。

島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の司祭で高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。


続きが気になって1日で一気に読み終えました。

辛くて、苦しくて、哀しい、遣りきれない思いが残る一方で、主人公が到達した結論に一種のカタルシスも感じる話でした。

一見救いがないんだけど、主人公はきっと神様の慰めを得ているし、今後も得られるのだと思う。


まず、キリスト教の弾圧が激しかった江戸時代が舞台で主人公も外国人宣教師なのでどうしても宗教的な話になるのですが、これを無宗教者が圧倒的に多い日本人が読んでも面白い・感動した・美しい作品だ、というレビューが多いです。

この小説は展開が劇的だから退屈せずに読めるという意味では無宗教の人も楽しめるかもしれないけれど、私だったらまず手に取ろうとは思わないだろう。

私は遠藤周作と同じカトリックなので一応キリスト教的な思想も理解しているつもりだし、読みにくいということもなくスラスラいけたけど、基礎知識もない状態で読んだら絶対理解できないと思います。

だから、この本を好きだと言える人の感性って純粋にすごいなあと思うのです。


さて、以下よりどうしても長くなりがちなレビューです。

この本に関しては思い入れが強いので、いくつかの記事に分けるやもしれませんがあしからず(あといつも以上に支離滅裂になるかと・・)。


海の静けさを用いた表現が美しくも恐ろしい

特に深く考えずに読み始めた作品でしたが、物語を読み進めていくうちに、この何の変哲もないタイトル「沈黙」という言葉がパッと目に飛び込んで来る瞬間がありました。

「なんのために、こげん苦しみばデウスさまはおらになさっとやろか」それから彼は恨めしそうな眼を私にふりむけて言ったのです。「パードレ(神父様)、おらたちあ、なあんも悪いことばしとらんとに」

 聞き捨ててしまえば何でもない臆病者のこの愚痴がなぜ鋭い針のようにこの胸にこんなに痛くつきさすのか。主はなんのために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の恐ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ。迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きが満ち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。キチジローの愚痴にはその問いがふくまれていたような気が私にはしてならない。

こちらの引用は、作中で隠れ切支丹の村が摘発され、村人たちが口を割るまでの人質としてキチジローという信者の男がお役人に引き連れられて行く際の言葉と、それに対する外国人神父の心の声です。

おそらく作中で「沈黙」という言葉が出てきたのはこの引用文の箇所が初めてだと思われますが、私はこの文を読んで本当にドキッとしました。

そして、遠藤周作って一信者でありながらなんてデリケートなテーマに正面から体当たりしていく人なんだろう・・と思いました。

ちなみにこの辺りの文を読むだけだと、タイトルの意味するところは「神の沈黙」であるかのように思えますが、実際に遠藤氏が作品を通して本当に訴えたかったのはその真逆で、「神は沈黙しているわけではない」ということでした。

このことについては後ほど触れたいと思います。


その後、お役人に踏絵を踏まされた村人たちは、さらに切支丹でない証をするために「十字架に唾を吐き、聖母は淫売だと言え」と役人に迫られます。

キチジローを除く村人たちには、それができませんでした。

結果、命令に従わなかったモキチとイチゾウという2名の村人は拷問に処されます。

それは海の浅瀬に磔にされる水磔と呼ばれる拷問で、絶命するまで引き潮と満ち潮を繰り返す波に常に晒され続けなければならない非常に苦しいものでした。

数日後に息を引き取ったモキチとイチゾウの様子を陰ながら見守っていた主人公の司祭は考えます。

 殉教でした。しかし何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教を――たとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光が満ち、天使が喇叭を吹くような輝かしい殉教を夢見すぎました。だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような輝かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。そして、海は彼等を殺した後、ただ不気味に押し黙っている。

 何を言いたいのでしょう。自分でもよくわかりませぬ。ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を――神が人々の嘆きの声に腕をこまぬいたまま、黙っておられるような気がして・・・。

この文に、私は心底ゾッとしました。

当時の司祭たちは、まさか自分たちの与り知らぬ極東の小さな島国で、キリスト教徒に対してこんなにも惨い拷問が為されているとは思いもしなかった。

いや、書簡で知らされていたとは言え、私たちと同じように司祭たちもきっとこのことについて具体的なイメージは持てなかったはずです。

だから作者は現実の残酷さを効果的に読者に知らしめる術として、海の静けさを用いたのです。


そしてこの文章を読んだ時、私は同時にふと3.11のことを思い出したのでした。

3.11の時、東北では津波が多くの人たちの命を奪って行きました。

でも海は海でしかなく、ただ寄せては返すだけの存在で、どんなに多くの命を吸い取ろうがいついつまでも変わることはない。

その事実と同じことで、主人公の若き司祭ロドリゴは海の静けさに神の沈黙を思い、恐れをなさずにはいられなかったのです。


そして文中でも触れられている通り、元来欧州諸国の人たちが殉教に抱くイメージとは、聖人伝に書かれている華々しい死であるか、もしくは軍人が「ローマ帝国に殉ずるか、神に殉ずるか」と問われて神を選んだ際に処刑されるようなものであったそうです。

少なくとも殉教が指す意味は、日本のように何の政治的な効力も持たない純朴な農民が老若男女を問わず、しかも厳しい拷問を受けて命を落とすようなものではなかったはずなのです。

そう考えると、やはり日本における切支丹弾圧の歴史は世界的に見ても異端だったのだと思わずにはいられません。


そもそも何故信者は踏絵を踏めないのか

踏絵と言えば小中学生~の教科書にも載るくらい有名なものですが、当時の周囲の生徒たちの反応として最もポピュラーなのは「かたちだけでも踏めばいいじゃん」というものでした。

確かに、考えようによっては単なる象徴でしかない十字架や聖像画を何故当時の信者たちは踏むことを頑なに拒んできたのか。

それはやはり、信者にとっては踏絵に足をかけること=キリストを否定するという意思表示であるとされている以上、簡単に踏むわけにはいかなかったからだと思います。


これに関しては、遠藤周作が“切支丹の里”という随筆で言及していました。

切支丹の里 (中公文庫)

切支丹の里 (中公文庫)

踏絵ーーそれは自分がこの世で最もうつくしいと思っているものの顔に、自分がこの世で最もきよらかと思っているものの顔に足をかけることである。恋人や母親の顔の上によごれた 足の裏をのせることである。

わかりやすいように恋人、母親、と例えていますが、これは、人智を超えた神を相手にしている話なのです。

そして、神を何故恋人や母親に例え得るかと言えば、キリスト教が説く神は、愛の神であるからだと思います。

踏み絵に足をかけても、バチは当たりません。

むしろ、やむを得ない事情に心痛めて、静かに涙するような神だからです。


ロドリゴは作中、信者達に対して「(この厳しい状況で)たとえ踏んだとしても神は許し給う」というような発言をしますが、彼らにとってはかけがえのない大切な存在を「踏む」という行為によって「否定」した事実は変わらないのです。

だから、たとえ本当に神が許してくださったとしても、踏んだ彼らの心が痛まなかったはずがない(このことについては遠藤氏もエッセイで言及しています)。

そのことを考えると、私も酷く胸が痛みます。

踏み絵を踏むという行為は、決して簡単なことではないのです。


・・・やはり長くなりそうなのでつづく。