【沈黙②】主よあまりに海が碧いのです

abomi344.hatenablog.com

前回からのつづきです。


司祭の疑惑

隠れ切支丹の村に匿ってもらい続けることができなくなった二人の宣教師は、いずれかが捕まっても片方が使命を果たすことができるようにと考え、とうとう進む道を二手に分かつことを決意します。

これが二人の今生の別れとなりました。


主人公ロドリゴの同僚、ガルペの殉教シーンは何度読んでも胸が苦しくなります。

ロドリゴと時同じくして役人に捕まったガルぺは「パードレが転ぶ(信仰を捨てる)と一言言えば、他の信者の命は助ける」と言いつけられます。

他の信者たちはすでに踏絵を踏んで棄教の意思を示した人たちでした。

切支丹に精通している役人は、しがない信者の一人や二人を転ばせたところで効果などなく、パードレを転ばすことこそ他の信者たちに対して大きな影響力を持つものだということをよくわかっていました。

しかしガルぺは最後まで転ぶことなく、海に沈められる信者たちを助けるために自らも海の藻屑となって消えていきました。


この時の、ロドリゴの心の叫びはこのようなものです。

「転んでいい。転んでいい」
 彼は遠くこちらに背を向けて役人の言葉を聞いているガルぺに向かって心の中で叫んだ。
「転んでいい。いいや、転んではならぬ」
 汗が額に流れるのを感じながら眼をつぶり、今から起こる出来事から卑怯にも司祭は目を逸らそうとした。
 あなたはなぜ黙っているのです。この時でさえ黙っているのですか。

一体この苦境を前に誰が彼等の葛藤を責めることができるだろう?と思うのです。

神にすべてを委ねて苦しみも厭わずに死んでいく信者も沢山いたのだろうけど、私たちは思考に足る弱い人間だから、どうしても疑いを持たずにはいられない。

ロドリゴが最も恐れた疑問、それこそ「神は、本当に存在するのだろうか――?」というものでした。


この国は沼地だ

同僚を失った失意のロドリゴは、かつての恩師フェレイラに会うことになります。

フェレイラはすでに転んでおり、今は日本の寺で新しい名前と妻子を与えられ、外国語の書籍を訳すことと聖書を否定する内容の書籍を自筆する仕事をしながら日本人として暮らしていました。

それを知ったロドリゴは言います。

 むごい。どんな拷問よりもこれほどむごい仕打はないように思えます。

全く持って彼らにしてみればそうでしょう。

キリストのために、キリストのうちに生涯を捧げると誓った司祭が、その自負を打ち砕かれ、一度は自分が心から信じたものを批判する行為を公然としなければならない。


ロドリゴは落ちぶれた恩師を責めますが、そんな彼に対してフェレイラは「この国(日本)は沼地のようだ」と言います。

「日本人は今日まで神の概念は持たなかったし、これからも持てないだろう」

私はこの文を読んだ時、この台詞に反感を持つ人は多くいるだろうなあと思いました。

ただ、ここで言う神とは日本人の多くがイメージしている「八百万の神」とは概念としては全くの別物です。

こればかりは、ユダヤ教キリスト教イスラム教等の一神教の宗教について学ばねばわからないことだと思います。

また、単純に「唯一神を信じており、他の神は認めない」という言葉だけでは、それはただの情報であって、やはり本当の意味を理解することはできないでしょう。


そして作中でも指摘されている通り、当時の欧州の一部の司祭達が神の概念に乏しい他民族をどこか軽蔑の眼差しで眺めていたのも事実だったのでしょう(もちろんこの司祭達の姿勢は全くもって間違いであり、キリストの意思に反していると思うけど)。

しかしこの台詞に至るまで、作中のフェレイラは偏った選民意識などは持たずにフェアな視点で当時の日本の様々な惨状を見てきたのではないかと思います。

そしてこの台詞を登場人物に言わせた遠藤氏は、キリスト教が敵勢宗教であると言われた戦時中すでに信者として日本に生きており、戦後初のフランスへの留学生として渡欧し現地で文化の違いを痛いほど知らしめられた当人なのです。

さらに、キリスト教フランシスコ・ザビエルによって日本に伝わってから500年近く経つ現代も、日本のクリスチャンの総数は人口の1%にも及ばないと言います。

これらのことを鑑みるに、私はフェレイラの言葉を「いいや!そんなはずはない!」とか「その言葉自体が選民意識の表れだ!」と言って断固振り切ることができないのです(フェレイラの意見が正しいということではなく、あくまで「きちんと考える余地がある」という意味でですが)。


もちろん遠藤氏がこの台詞をフェレイラに言わせたからといって、氏が日本という国をこのように突き放した目で見ているとは思っていません。

むしろ、遠藤氏は日本人の肌に合うキリスト教(と言うよりも神と人との関係か?)の在り方を生涯模索し続けていたと思います。

当時はその姿勢を異端だと切り捨てる信者も多くいたようだけど・・・沈黙が書かれてから早数十年、私は遠藤氏が言っていたことに、むしろ現代の教会の主張が追いついてきているのではないか?とさえ思えることが時折あるのです。

脱線しました。


一番辛い愛の行為

牢に入れられたロドリゴは、自身は拷問を受けず、すぐ傍で穴吊り(地面に掘った細長い穴に逆さまで吊るされる拷問。すぐに死なないようにこめかみのあたりに小さな穴をあけて血抜きをしながら長い間苦しめられる)に遭う信者たちの呻き声を聞き続けなければなりませんでした。

そしてフェレイラに説得され、とうとう心身ともに限界を迎えようという迫力のラストシーン。

「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが恐ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが恐ろしいからだ」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにおられたら」
 フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」

 夜が少しずつあけはじめてきた。今まで闇の塊だったこの囲いにもほの白い光がかすかに差しはじめた。
「基督は、人々のために、たしかに転んだだろう」
「そんなことはない」司祭は手で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。「そんなことはない」
「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
「これ以上、わたしを苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」
 司祭は大声で泣いていた。門が鈍い音をたててはずれ、戸が開く。そして開いた戸から白い朝の光が流れ込んだ。
「さあ」フェレイラはやさしく司祭の肩に手をかけて言った。「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」

最初の太字のところが、私はとても心に響きました。

フェレイラが決して方便でこのようなことを言ったわけではないのが、一瞬沈黙を守った(躊躇った)ところから感じられる気がしたのです。


先にも言ったように、当時の日本では踏絵を踏むということは「神を否定する意思を示す行為」であるとされていました。

例えそれが人間が定めた形式的な行為だとしても、それが信仰を否定する意味を持つ以上、彼らは簡単に諦めるわけにはいかなかったのです。

まして、信者を導く司祭職の人間がそのことを認めては元も子もなくなります。


けれども、今一度いろいろな価値観を取り払ってキリスト自身が当時の司祭達の立場に立たされたら・・・と考えてみると、私もフェレイラと同じ感想を持つかもしれないと思いました。

キリストはご自分の苦しみは甘んじて受け入れて十字架上の死を遂げたけれど、それは神の自己犠牲であって、私たちに同じような残酷な生け贄を求めているわけでないはずです。

何故なら、現にキリストは聖書の中でこのようなことを言っています。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11章28-30)

これは、私たちの人生におけるすべての苦しみをご自分に委ねるように勧める招きです。

そのキリストが、「惨い」としか言い様がない拷問を受ける信者達を前にして、果たして踏絵を踏まないことに拘るだろうか?と。


また、司祭や信者たちにとって転ぶことは単なる挫折ではなく、次なる苦しみの始まりでもあります。

最後まで転ばずに殉教死すれば教会や残された司祭・信者達から英雄視されるだろうけど、ロドリゴやフェレイラにとってそれは今目の前で苦しむ信者達を見捨てる行為でもあります。

しかし転んでしまえば、司祭としての自分を自負していた彼らが全てのアイデンティティを剥ぎ取られ、遠い異国の地で「転び者」として一生を蔑まれながら生きなければならなくなる・・教会も修道会も保護などしてくれません。

一体どちらが正しくて、どちらがより辛いのでしょう。容易に答えは出せません。

私には想像してみることしか出来ないけれど、フェレイラがこの時「最も辛い愛の行為」と言った気持ちがわかるような気がするのです。


・・・ダメだ、どうしても長くなる。つづきます。