【沈黙③】長くなったけどこれで最後です

abomi344.hatenablog.com

前回からのつづきです。


沈黙の灰に埋められた者たち

ロドリゴは、奉行、通詞、そして恩師フェレイラからの巧妙な罠と説得の下、とうとう踏み絵に足をかけます。

その時、ロドリゴは「踏むがいい」というキリストの声を聞くのですが、この辺の解釈については、正直言って私には咀嚼仕切れていない部分も多いので何も言うことが出来ません。

このシーンは教会や信者、一般読者の間でも意見がわかれる部分のようです。

ただ私としては、遠藤氏が文学としての“沈黙”で読者に一体何を伝えたかったのか? という面だけを汲もうとすると、やはりどう読んでも「神は沈黙しているのではない」ということなのだと思わざるを得ません。

それを、あくまで文学としてわかりやすい形をとって最後の「声」として描いただけではないのかと思うのです。


実際、遠藤氏は“沈黙”を宗教書とは読まないで欲しいと言っています。あくまでこれは文学なのだと。

そのことがよくわかる言葉として、“切支丹の里”という随筆から以下の部分を引用します。

切支丹の里 (中公文庫)

切支丹の里 (中公文庫)

 弱者ーー殉教者になれなかった者。おのが肉体の弱さから拷問や死の恐怖に屈服して棄教した者についてはこれら切支丹の文献はほとんど語っていない。もちろん無数の無名の転び信徒について語れるはずはないのだが、その代表的な棄教者についてさえ、黙殺的な態度がとられているのである。
 〜中略〜
 こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼らがそれまで自分の理想としていたものを、この世で最も善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。彼らが転んだ後も、ひたすら歪んだ指を合わせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。私は彼らを沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。彼らを再びその灰の中からも生き返らせ、歩かせ、その声をきくことはーーそれは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだという気がしたのである。

ここは本当に大好きな箇所で、遠藤周作の優しさ、自分の弱さを認める強さ、そして小説家としてそれらを昇華しようとする仕事人としての責任感のようなものをじわじわと感じました。

まさに、多くの政治家や歴史家が見捨てたものーー小説家にしかできない弱者への視点を掘り下げるということを遠藤氏は“沈黙”で試みたのだと思います。



俺はキチジローだ

遠藤氏は、“沈黙”を「俺はキチジローだ」と思いながら書いたそうです。

私がこれに共感するか、と尋ねられるとちょっと迷うところなのですが、著名な小説家かつクリスチャンである遠藤氏がこのように言うのは、少なからず勇気がいることだったと思います。

それでも、正直に公言することを選んだ遠藤氏の潔さを好意的に感じることは確かです。


私はキチジローが時折、キリストに最も近しかった十二使徒のように思えることがあります。

十二使徒と言えばキリストを銀三十枚で売ったユダが一番有名だと思いますが、その他の使徒たちもまた、自分の身に降り掛かる迫害を恐れ、キリストが大祭司たちに捕まった時に脱兎のごとく逃げ出した、と聖書にあります。

そのうちの一人であるペトロが私はとても好きで、彼の惨めな苦しみとそのいじらしさに愛着すら感じるのです。


ペトロは、十字架刑を受ける前のキリストにどこまでも従順であることを熱烈な言葉で誓っています。

すると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。(マタイ26・33)

キリストはそんなペトロに、冷たくも思えるような返答をします。

エスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マタイ26・34)

つれないキリストに対して、さらにペトロは言います。

ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。(マタイ26・35)


このようなやり取りをした直後、キリストは大祭司たちに捕縛され、さらにほんの30節程後に“ペトロ、イエスを知らないと言う”という節があります(笑)

速攻過ぎてちょっと笑っちゃうんですが、十二使徒は宣教師として働き始める前はそれほど人間的で、遠藤周作の言うところの“弱者”であったと言えます。

そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。すると、鶏が鳴いた。
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26・75)

私はこの↑「外に出て、激しく泣いた」という描写がとても好きです。

大の男が、何が起ころうとも自分だけは最後まで主に従うと自負していたはずのペトロが、キリストに言われたことをハッと思い出して(別の福音書では、確かペトロは連行されていくキリストと目が合った、と書かれています。裏切った師と目があった瞬間、彼は何を思ったのでしょう)、自分の裏切りに傷ついて泪するのです。

彼にとってはその裏切りが、それほど大きな悲しみだったということでしょう。


この後、キリストは十字架刑に処され、復活します。

そして復活後のキリストの元にペトロは恥を忍んで戻り、赦しを得て、後に初代ローマ法王になるのです。

神は、三度もキリストを知らないと言って裏切った使徒を、教会の後継者として選んだ。

この事実は真実です。

だから私は決して“弱者”はただ排斥されるだけの存在ではないと思えるのです。


ロドリゴの救い

 
私は、放蕩息子の話やペトロの例を見るに、神は私たち人間に対し、どんなにみっともなくても何度も何度でも泣いて私の元に駆け戻り赦しを乞いに来なさいと望んでおられるのではないかと思えてならないのです。

そして遠藤氏が描きたかったキリスト像(かつては母性的すぎるとの指摘もあったようですが)はこれに近いのではないかと。

もちろん最初から棄教せずに信仰を貫いて真っすぐ神様の元へ向かえる人はすごいと思うけれど、聖書の中では、むしろ惨めで弱く、罪深い人間にこそキリストは自ら興味を示して近づいて行くのです。

自分が間違いなど起こさず、正しく生きて行けると信じられる人は、キリストのこの態度に少しばかり憤りを感じることもあるようです。

私は、私もまた弱い人間である気がしてならないので、キリストのこの優しさに大いに有り難みと親しみを感じずにいられません。


当然の事ですが、神の元へ泣いて戻った後に「どう生きるか?」ということも大切になってきます。

その点において、小説の最後の部分にあたる切支丹屋敷役人日記”では、「棄教したロドリゴの側には家来として常にキチジローがいた」と書かれています。

私は、やはりロドリゴもキチジローも本当には棄教していなかったと思います。

本当にもう信じていないのなら、少なくともロドリゴ自死したのではないかと思うし、キチジローもそこそこのところでロドリゴを追い回すのを辞めてどこかで野垂れ死んだのではないかと思うのです。


小説のラストシーン。

この世において、神父であった自分を認め、今なお神父として神とのつながりを保つための助けを求めてくるのはもはやロドリゴにとってはキチジローだけでした。

ロドリゴ自身、もしも本当にまだ信仰を捨てたわけではなかったのだとしたら、目に見える形ではっきりと神とのつながりを感じられるのは、キチジローと接した時だけだったと思います。

それがどれほどロドリゴにとって深い慰めになったか…と思うと涙を禁じえません。

信仰のあるなしは別として、生きた人のぬくもりに癒されることは大いにあり得ることで、ロドリゴもそうだったのだと思います。

キチジローはその意味で、最後まで裏切りを続け、最後までロドリゴの近くにいることを使命とされていた人だったのかな…とさえ思えます。

同じ棄教者であるからこそ、ロドリゴも必要以上に卑屈にならずに済んだと思いますから。



・・・と、最後は勝手な解釈をつけたしましたが、ここであまりに雑然としたレビューは一旦おしまいにしたいと思います。

私は小説としては他の遠藤作品である“海と毒薬”や“侍”の方が好きなのですが、“沈黙”に関しては遠藤氏がこれを書くに至った動機からして興味深く、考え甲斐のある作品なので、印象的かつ衝撃的だった小説という意味ではやはり“沈黙”はベスト3に入るなあと改めて思いました。

“沈黙”をきっかけに、長崎旅行までしたので尚更です(笑)

旅行で見てきた切支丹遺跡もそうとう興味深いものがたくさんあったので、いずれ備忘録として記事にしたいなと思っています。

それでは、長々とおつきあいありがとうございました。