できるかぎりニュートラルな視点を持ちたい

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先日初詣に行ってきた時に引いたおみくじは吉だった。

諸事情により大人になるまで初詣に行ったことがなかった私は、三が日が過ぎても大混雑している都内某寺の様子に驚くばかり。

こんなに沢山の人がお参りしに来るんだなあと、何だか感慨深くもあるのだった。


髪の毛が真っ赤なお兄さん、寒空の下、薄着で缶ビール

私は、参拝のために近くの列に並んでいたロッカー風情の兄ちゃん軍団のことがどうしても気になり(缶ビールを飲んでいた彼らが突然思い出したかのように「クッソ寒い!」と叫んでいるのを見て、すまんが笑った。そりゃそうだろうよ)

「ああいう人も初詣に来るんだねえ」

と呟くと、

「君、それ去年も言ってたよ」「別に普通のことだよ」

とK氏に言われた(あと、「これは宗教じゃなくて習慣だからね」とも言われた。妙に納得した)。


何故私がそんなことを言ったのかというと、普段神仏的なものを信じるということからは遠くにいるように見える人たちでも、お正月には律儀に神様に挨拶しに来て、おみくじを引いて一喜一憂しているということが不思議だったからなのだ。

でもK氏にそう言われて、ふむ、私の方が偏見に満ちているのかもしれないと思った。

彼はこういうことについて、私が拍子抜けするほどニュートラルな視点を持った人だ(ただ知らないだけ、とも言うかもしれないけど)。


スペイン人、カトリック司祭の目から見た"初詣"

初詣と言えば、私が日頃からお世話になっているスペイン人の老神父の話を思い出す。

神父様が若い頃、元日に都内から鶴岡八幡宮まで自転車で同僚と一緒に爆走し、神社に着いてその賑わいに大変驚いた、ということがあったそうだ。

生気が漲りすぎてて私にとってはちょっと笑える話だったのだが、当の神父様は大勢の人が行列をつくり、順番に参拝していく光景を見てとても嬉しかったらしい。

「これほど多くの人が祈っている。こんなに素晴らしいことはない」と。

そして、神父様も他の人たちと同じように列に並んで同じように神に祈った、と仰った。


ところで、私は某新興宗教に所属している家庭に生まれ、特に熱心な信者だった祖母に対して現在も複雑な気持ちを抱えている(※過去記事参照)。

abomi344.hatenablog.com

この話は、私が祖母の話をした後に、神父様がその回答の1つとして話した経験談だった。


経緯を考えれば、神父様が何を伝えたかったのかということは察することはできたけど、私が話を聞いて咄嗟に考えたのは、

「神父様、あなたは神社に向かって神に祈ったのですか」

「それは私たちにとって問題ないことなんですか」

「多くの人が祈っているというけれど、それは神父様が言うところの"神"とは違うのではないのですか」

ということだった。


我ながら愚問だと思ったし、そんなことは神父様も百も承知で話されていることは理解していた。

それでも、私が真っ先に考えることは、未だに上記のようなことばかりなのである。

それに比べて、遠い異国の地から来た神父様はなんて柔軟であたたかい喜びに満ちているのだろう。


染みついた思考を変えるには

世の中には色々な宗教がある。

特定の宗教を信じていなくても、神の存在は認めるという人もいるだろうし、自分の経験則に基づいてその存在を否定する人もいるだろう。

はたまた神の存在について特に深く考えることもなく、一生を終える人もいるだろう。


神父様はこれら日本人の特質を踏まえた上で、何かを"信じる"という部分だけを抽出し、"信じる"こと自体には優劣などないし、決して否定されるべきものではないと言いたかったのだと思う(だけどこれは、決して何を信じても良いという意味ではない。割愛)。

私が、「祖母は間違っている。あの人は、それを私たちに無理矢理押しつけてくる」というようなことを言ったからだ。

祖母が間違っていることは事実だけど、事実じゃない。

これは説明するのが難しいのだけど、私は祖母の信じる新興宗教組織はカルトだと考えているが、祖母の信じる気持ちそのものを偽物だと言って否定することはできないし、したくない。


私は、自分が子供の頃に感じた嫌な感情を今もずっと引きずっていて、それを発散したり何らかの形で噛み砕く機会がなかったので余計に自分の中で拗らせている。

その拗れが、今の私の物事に対する偏見として表れているような気がする。


そんな私に会う度、神父様は繰り返し繰り返し仰る。

「キリストは誰も嫌いません。憎みません。知らないことに責任はない。おばあさんのことも大丈夫、最後に必ず(キリストが)天国に連れて行ってくださる。だからあなたも憎まないで。安心して、大丈夫」

まるで私に染みついた偏見を溶かすように、何度も何度も。


凝り固まった考え方を変えるにはどうしたらいいだろうか。

また同じことを考えている、と気付いた時に、毎回自省すればいずれは変わっていくことができるのだろうか。

私はそういう時、神父様が仰った言葉を頭の中で繰り返すようにしている。

それが私の中枢なのだ。

もっと器用に軽やかに生きていくことができる人も世の中にはたくさんいるのだろうけど、それは仕方が無い、私はこういう性格で、こういう星の下に生まれてしまったのだから。

日本で日本人として、自分で決めたのだから、クリスチャンとして生きていくために、その言葉を呪文のように繰り返す。


そんなことをしていて、ふと思った。これもひとつの祈りなのだと。

「こうなりたい」と繰り返し繰り返し強く望むこと。ズレに気付いたら自省して、少しずつ自分を理想のかたちへ寄せていく努力をすること。

あまりに遅い歩みかもしれない。でも、この流れこそが、祈りなのだ。


神父様に習い、神社に向かって祈った。

今年、私はまた色々な面で変わっていくことだろう。

どんなに私が変わっても、どうか私があなたを忘れることがありませんように。

決して私を見捨てないでください。手を離さず、一緒に連れて行ってください。一人にしないでください。

まるで子供が親を追い縋るような気持ちで、呼びかけている。