【長崎の鐘】諸君、さよなら――僕は足から燃え出した

長崎の鐘 (アルバ文庫)

長崎の鐘 (アルバ文庫)


3年前の冬、私は長崎へ一人旅するための計画を練っていた。

目的は思う存分教会建築を見て、切支丹遺跡を巡ること。そして長崎の美味いもんを食い尽くすこと(これ大事)。

参考資料として、ガイドブックでは物足らずに歴史散歩の本やらにも手を出し、最終的にはキリスト教徒の作家たちの聖地巡礼日誌のようなものまで読んだ。

そして、さらに調べていくうちに、永井隆博士の存在を知ったのだ。


放射能医学博士・永井隆

永井博士とは、ざっくりこんな人だ。

 1908年(明治41)2月3日、島根県松江市生まれ。1932年(昭和7)長崎医科大学卒業の直前に急性中耳炎にかかり、内科医専攻を断念し同大付属病院にて放射線医学を専攻。満州事変、日中戦争への2度の従軍を経て、1944年(昭和19)に医学博士となる。1945年(昭和20)6月、過度の散乱放射線被曝による慢性骨髄性白血病で「余命3年」と診断される。
 その2ヶ月後の8月9日、長崎市に投下された原子爆弾で博士は市民とともに被爆、右側頭動脈切断の重症を負い妻までも失った。妻を失った悲しみのなか、その後約2ヶ月間にわたり被災者の救護活動を行なう。同年10月中旬には再び浦上の地に戻り、再建の道を歩み出すが、翌1946年(昭和21)年末には病状が悪化、寝たきりの生活を余儀なくされる。
 寝たきりの状態で出来る事―「書く」道を選んだ博士は『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』『原子雲の下に生きて』など、17冊の著書を書き上げ、恒久平和実現を広く訴えた。

如己堂(にょこどう)・長崎市永井隆記念館【長崎原爆遺跡巡り】より引用。


研究活動で放射線を浴びすぎた永井博士は、終戦2か月前に余命3か月と宣告されたため、妻と子供たちを遺して確実に先に死なねばならないことについて覚悟を決めていたその矢先に、長崎に原子爆弾が落ちたのである。

なんて数奇な運命だろう、と思った。


原爆が落ちた直後の長崎医学大学

永井博士が勤めていた長崎医学大学は爆心地からわずか400メートルしか離れていたなかったそうだが、コンクリート建築物の中にいた人たちや、防空壕を掘るためにたまたま穴の中にいたわずかな人たちだけが助かった。

本書の中には永井博士の言葉として、本来、陸上戦が始まった時に何より自分らこそが負傷した人々の救命のために働かなければならぬと思っていたのに、その自分たちが被災者になってしまった!こんなに悔しいことはない、というようなことが書いてあった。

そして前半のほとんどでは、命からがら倒壊した建物の中から脱出した人々の証言を元に原爆投下後の惨憺たる光景について書かれている。

その一節を、今回の記事のタイトルに引用させてもらった。

原爆によって即死したり負傷することはなかったけれど、倒壊した建物の下敷きになり、そこに起きた火事から逃げることを潔く諦めた学生の言葉である。

その学生は、突然海ゆかばを歌いだし、その歌が途中で途切れた直後に、「諸君、さよなら――僕は足から燃え出した」と言ったのだそうだ。

私には、なぜかこの言葉がズシンと重く心に響いた。なんて恐ろしい状況だろう。


原子爆弾の完成!日本は敗れた!

放射能研究室を持つ長崎医学大学の教授陣でさえ、長崎に落とされた爆弾の正体にしばらくの間気付かなかったそうだ。

そしてそれが原子爆弾であると知った時の永井博士の心境は複雑である。

なるほどそうだ。この威力は原子爆弾でなければならぬ。昨日からの観察結果は、予想されていた原子爆弾の減少と一々符節を合わすものだ。ついにこの困難な研究を完成したのであったか。科学の勝利、祖国の敗北。物理学者の歓喜、日本人の悲嘆。私は複雑な思いに胸をかき乱されつつ、酸鼻を極むる原子野を徘徊した。

本書の興味深い点の一つは、この本が単なる被爆体験談として書かれているのではなく、一科学者の視点も交えて、原子爆弾投下という事実を見つめているところだと思う。

彼らが原爆について語る時、ある種不謹慎とさえ思えるような科学者としての強い探究心が文章の合間から垣間見えるのである。

読んでいる方も「そんなこと言っていいのかい?」と、ちょっとソワソワしてくるほどだ。


如己堂にて

先に書いたように、原子爆弾が落ちようが落ちまいが、永井博士に残された時間は少なかった。

そこで博士は、晩年を随筆家として反戦を主とする多くの作品を後の世に遺すことに費やした。

闘病と執筆活動をするために、爆心地からほど近い土地に如己堂と呼ばれる小さな小屋を作らせ、そこで寝食した。

現在ではそのすぐ隣の土地に、永井隆記念館が建っている。

f:id:abomi:20190110234531j:plain

(※もちろん行ってきた!)


戦後、復員してきた教え子たちが永井博士を訪ねてこの如己堂にやってきて、長い答弁をするシーンが本書の終盤にある。

日本はまだ戦えた、余力のある降参をしたので残念だ、と口々に言う教え子たちを博士は以下のように叱責する。

実戦を知らぬ将校が自己の名誉心を満足させるために、何も知らない部下を叱咤して戦場に駆り立てる傾向がありはしないでしょうか。実戦というものは残酷なものですよ。戦争文学を寝転んで読んでおれば美しく、勇ましくて、俺も一つ出てみようかという気になりますがね。実際は違います。たまたま真実を写生したものは、検閲にかかって発表を止められてきたのです。義経の戦には絵があります。乃木大将には詩があります。しかし原子爆弾のどこに美がありましたろう。あの日あの時、この地にひろげられた地獄の姿というものを、君たちが一目でも見なさったなら、きっと戦争をもう一度やるなどという馬鹿馬鹿しい気を起こさぬにちがいない。これから戦争が起こることがあると仮定すると、至る所に原子爆弾が破裂するでしょう。そうして無数の人間がなんの変哲もなく、ただピカドンと潰されてしまうのです。美談もなく、詩歌もなく、絵にもならず、音楽にもならず、文学にもならず、研究にもならず、ただローラーで蟻の行列を圧し潰すように、そこら一帯地均しされるだけのことです。馬鹿馬鹿しくてやれるものじゃありません。

私は、この言葉にすべてのことが詰まっているような気がしてならない(色を付けた部分は、個人的に美しいとさえ思った文章だ)。

これ以上に戦争について何か言うことがあるだろうか。

それなのに何故、一部の限られた人間はこうして命がけで後世へ真実を遺した人々の叫びを無視して、再び戦争をしようとするのだろう。


放射能の研究に命を削って、その最高傑作と言われる「原子爆弾」をその身に浴びた永井博士が、今後それを使うことが主になるであろう戦争に断固反対する。

この事実には、とても説得力があるように私は思う。


長崎旅行の最後の行き先として永井隆記念館を選らんだ私は、この本を買おうかどうかずっと悩んでいた(荷物が爆発的に重かったのだ)。

でも、どうしても気になって気になって、著作を2冊も買って帰った。

それは間違いでなかったと、ここに改めて思うのである。