Jesus remember me, when you come into your kingdom.

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先週末はイースターでございました。

大したことはやってはいはずなんだけど、先週は週末に向かうにつれて心身ともに疲れ果てていって、ずっと「しんど~」と思いながら過ごした。

それでもなんとか教会に行くと、不意に日々の色々を考えてしまって、何故かダラダラ涙が出てきたり。

安心できる場所に来たり、息をつける人に会ったりすると、そういう状態になることが時々ある。

ムラムラとした怒りを長い間溜めこんでいると、臨界点が近くなっても自分では気付くことができない。

無理に堰き止めなくても良い場所に来ると、それがドバッと溢れるから、そういう時の私はすごく情緒不安定な人間に見えているんじゃないかと思う。

そもそもが普段は格好付けて隠しているだけで、不安定な人間なのかもしれない。やだなーっ。

まあそんなことは置いておいて。


キリスト教カトリックで祝われるイースター(復活祭)は、灰の水曜日から四旬節と呼ばれる復活祭の準備期間が始まり、復活祭の1週間前の日曜日が「主の日」、木曜日から土曜日までの3日間を「聖なる過越の3日間」と言い、キリストがエルサレムに入場して十字架上の死を迎え、復活されるまでのことを毎年繰り返し祝っています。

クリスマスも好きだけど、やはりキリスト教の真骨頂は復活祭。

復活祭が近くなるといつも思い出すのですが、洗礼を受ける前からお世話になってた老神父様から「キリストの復活を信じられないなら洗礼は受けなくてよろしい」とバッサリ切られたことがあります(笑)

ここまで一緒に洗礼準備を進めてきたはずなのに何故や・・・と思った記憶がありますが、今も私の中でその言葉は印象深く残り続けています。

キリストの復活は、物理的な証明が難しい以上(色々な研究が日々進んでいるとは言え)、最終的に信じるか信じないかはその人に委ねられているからです。

神父様にそのように言われて改めて考えた時、まだまだ知らないことも解らないこともあるけれど「信じるか、信じないか」と問われれば、私は「信じます」と言いたいと強く思いました。


またまた話が逸れましたが、結局一人で過ごすことにはなったけれど、今年も振り返ってみると何だかんだでなかなか良い復活祭だったなと思いました。

私は、聖金曜日(主の受難と死去の記念日)に必ず歌われる「主よ私を思い出してください」という歌がとても好きで、これを聞くと毎度じんわりと涙が出てきます。

歌詞は「2人の罪人の話」と呼ばれる、以下の聖書の箇所を引用したものです。

ルカによる福音書23章39−43節 (新共同訳)
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


内容を大雑把に説明すると、これはキリストがゴルゴタの丘で十字架刑に処されている最中の出来事で、キリストと共に並んで処刑された2人の罪人の話を描いています。

この2人は対照的な反応を示しており、1人はキリストを罵り、もう1人はキリストを主と認め「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っています。

この「わたしを思い出してください」という台詞がすごく健気に感じられて、いつも堪らない気持ちになります。

死を目前にして、神聖な何かに強烈に乞い憧れながらも、手を伸ばすことが躊躇われて、触れるのが申し訳なくて、だからこの罪人はそれを「欲しい」と言う代わりに、キリストに対して「わたしを思い出してください」と言ったのだと思うのです。

でも、自分を思い出してくれる誰かがいることって、よくよく考えてみればすごく贅沢で幸せなことですよね。

それを、唯一で永遠の存在、生きている時も共にいて、死んで益々側におられる方に願うことは、衣食住だけでは満たされない人間の本質的な渇望につながっていると思います。

だから、この罪人が言ったことは、現代の多くの人達の望みでもあると思うのです。