「死にたいなら一人で死ね」論争について

28日の早朝に川崎で起きた痛ましい事件について、ネット上で藤田孝典氏が書いた記事が話題になっておりますね。

news.yahoo.co.jp


私にはこの記事がここまで激しく叩かれる意味がよくわからない。

完全に同調するわけではないし、多少極論では?と思うところや違和感を抱くところはあれど、総合的には藤田氏は至極真っ当で良心的な呼びかけをしているだけだと思う。

そして、この記事の真意は本事件の犯人を擁護するものではなく、ただ「言葉の威力」というものについて注意喚起しているだけなのでは、と。


そういうわけで、このツイートの方が、私としてはしっくりきた。


藤田氏は、色々な事情によって追い込まれた人々がこの言葉を受けて次なる凶行に走ることのないように社会全体で予防線を張ろうと言っている。

私がちょっと極論かな?と思ったのはまさにここなのだけど、記事中の言い回しは「次なる凶行を生まないためでもある」とあるので、あくまで「次なる凶行」は可能性の一つであり、むしろネット上での安易な発言を慎むことで、人々の心の荒みを軽減させることが目的なのではないかと。

まともな感覚を持っていれば、「一人で死ね」というフレーズに不快感を抱くのは当然のことだと思うし、自分に向けて言われていることではなくともその言葉によって孤独感を煽られる人がいるかもしれないから。

そういう意味で受け取れば、私は藤田氏の言うことはもっともだと思う。


現代では、言葉があまりに軽い。

特にSNSを通して誰でも簡単に匿名で自分の意見を世界発信できるという状況が、本来言葉というものがどれほどの力を持っているかということに対して、人々の感覚を鈍感にさせているのかもしれない。

社会全体にそのような傾向があるから、言葉の暴力でどれほど人を深く激しく傷つけることができるか、その残酷さについて思い至らないのではないか。


この論争の中で、もう一つ引っ掛かることがある。

「死にたいんなら一人で死ね」という発言を諫める声に対して、

「それ、遺族を前にしても言える?」
「自分が遺族だったらそんなこと言える?」

というコメントが非常に多く見られることだ。


うーん・・これも何か変な返しだなあと思うのは私だけだろうか。

そもそも被害者遺族に対してわざわざ「一人で死ねという発言は慎むように」なんて提言する機会なんかないと思うし、仮に遺族がそのようなことを言っていたとしても、その時は大切な人を突然理不尽に奪われた哀しみの最中にいるのだから、周囲の人間はただ黙って見守るしかないと思う。

逆に、遺族に対して面と向かって「犯人のやつ、一人で死んでくれればよかったのにね」なんてみなまで言える人がいるのかという疑問もある。

それこそあまりに配慮に欠けた言葉ではないですか。


また自分が当事者であったなら、まずは大切な人を失った事実を認識することだけで必死になると思う。

そして犯人を憎み、できるならこの手で殺したかったと思うでしょうよ。

その上で、事件と関わりのない人たちが犯人に対して「死にたいなら一人で死ね」なんて過激な言葉を大袈裟に叫んでいたら、そういう世間に対しても憤りを覚えると思う。

放っておいてよ、今はとにかくそっとしておいてと、ただそれだけだと思う。


そして、ハッキリ言って陳腐としか思えない上記のような返しをしてくる人に対しては、誰かを巻き添えにする死を考えている人に対して、顔も身分も曝け出した状態で面と向かって「一人で死ねば?」って言えますか?と、逆に問いたい。

そんな怖ろしいこと、できる人はなかなかいないでしょう。

相手が逆上するかもしれないし、まともな感覚を持った人間であればそれを言った瞬間に相手の深く傷つく様子を見て後味の悪い思いをするに違いないと思う。

結局、誰かと対面していないから、安全な場所でPCやスマホの画面を見ているだけだから、そういう暴力的な言葉を平気で吐けるのだと思う。


また、藤田氏の記事に対して「偽善」「綺麗事」という言葉もかなり多く見たけれど、私はこれらの言葉の本当の意味をよく考えるよりも先に、この人達はただ容易に思い付く常套句を使って発言者を責めたいだけなのだろうなと思ってしまった(そうじゃない部分もあるかもしれないけど)。

だから、あまりまともにその人達の意見を見る気にもなれなかった。


私は、藤田氏の発言を普段から追っている人が何らかの根拠があって彼の今回の記事が偽善的であると言うのなら「そういう意見もあるんですね」と思うけど、皆が皆そこまで深く考えた上で「偽善だ!」と叫んでいるとは思えない。

そして、多くの人達が被害者や遺族のことを思って哀しみ、犯人に対して憤りながらも、藤田氏の注意喚起に対してはまるで他人事のような態度を取っていることにも矛盾を感じる。

本当に被害者たちに対してシンパシーを感じていて、今度は自分が被害者になるかもしれないと考える想像力があるのなら、藤田氏の記事を「綺麗事」と切って捨てる前に何か考えるべきことがあるのでは?

事件が起きた時に、「悪」と断定した何かを激しく糺弾するだけで、何もしない・考えもしない人達こそ、被害者のことを慮ったような顔をして自分本位なだけの人間なのではないの?

そういう人達が増えることで、1人1人が生きづらく、寂しい世の中を作ってしまうのではないの?


当然、犯人は法的に裁かれ自分が犯した怖ろしい罪を償わなければならなかった。

そこから逃げたことは責められて然るべきだと思う。

どんなに人生が辛く苦しいものでも、関係のない他人を巻き込んで死んで良いはずがない。

これらのことは、大前提であって言うまでもないことだ。

大前提に触れていないからと言って、この記事は犯人を養護する内容だ!と騒ぐのも浅はかで安直な解釈としか思えない。


と、いろいろと文句を言ってしまいました。

ただ私はね、これも犯人擁護では決してないけど、今回のような暴発的な事件(犯人は綿密に計画してたかもしれないけど、その場にいた人たちが被害を回避し難いという意味で)を起こす人間をただ激しく叩き社会から抹殺する方向にだけ動く大衆心理というものが恐ろしいのです。

過去の歴史を省みても、大衆心理に飲み込まれると、一人の意思なんてあまりにちっぽけで力ないものであることがよくわかる。

その時は大勢の人たちの意見に合わせていれば問題なかったことでも、時に大衆心理には大いなる掌返しがある。

そこで少数派として弾き出されたら、生き延びる術はほとんど残されていないんじゃないかと思う。

なぜ皆、自分が加害者になる可能性について思い至らないのか。

それとも思い至ったところで、そういう人間は排除されて然るべきと思っているのか。

その時本当に納得して自分が消えていくことを受け入れることができるのか。

あまりに現実とかけ離れたことかもしれないけど、考えることは、無駄ではないと思うのです。


今回は、ネットニュース等を見て勝手に不穏な気持ちになったのである意味反対意見をあえて記事にしてみた。

こんな私の考えも、多くの人たちにとっては綺麗事に他ならないのだろうか。