自分の人生に何が必要なのか見極める

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最近、私の専門学生時代の同級生がキリスト教カトリックの入門式を受けました。

カトリック教会では、どこの教会でも司祭やブラザー、シスターが受け持つ入門講座というものを開いています(最近は聖職者不足のために神学を修めた一般信者の方が教鞭を取ることもあるようです)。


入門講座とは、教会で公教要理(平たく言うとカトリック教会の教え)を学ぶ講座のことで、この講座に参加する未信者の人は、一定期間が過ぎると入門式・志願式を受けられるという説明を受けます。

入門式とは、簡単に言うと「洗礼を受けることも視野に入れて教会で勉強をしたいです」という意思表明の儀式であり、その後に受ける志願式は「洗礼を受ける意思があります」という意思表明の儀式になります(どちらも希望しなければ、断って普通に勉強し続けることも可能です)。

そして、1年間を通して勉強した後、3月~4月のイースターの時期に晴れて洗礼式が行われるというわけです。


ちなみにプロテスタント教会の中では聖書を3回通しで読んできたらその場で入信を認めるという宗派もあるそうです。

それに比べると、カトリック教会が一人の信者を得るまでに踏まねばならないステップは、本人に確固たる意思がない限り洗礼志願者にとっても時間がかかるし面倒なものだと思います。


しかも、指導司祭が大手を振って喜んで入信させてくれるというわけでもない場合も多々あります。

私の場合は、指導司祭に入門講座の最後の最後で「(キリストの)復活を信じられないなら洗礼は受けないでよろしい」とキッパリ言われてしまい、ここまで一緒に勉強してきたのに何故ここで突き放す・・!?と思った記憶があります(しかも、私は信じられないなんて一言も言ってないのに・・笑)。

今回入門式を受けた同級生も、指導司祭に事前面談で「そんなに焦らなくてもいいんじゃない?」と言われてしまったそうです。


人によってはこんな言い方をされたら興が削がれて「もうやーめた」と思う人もいるのかもしれないけど、カトリック司祭にはわりとこういう天の邪鬼な方が多いというか、思いのほか厳しい目で洗礼志願者を選別しているのかも?と思えるような言動をする方がちょくちょくいらっしゃいます。

とは言え決して無暗に冷たくされるわけではないので、これもある程度必要な「突き放し」なのだろうなと私は思っています。


理由は割愛しますが、カトリック教会が持つこのような【宣教にあまり積極的ではない・必死ではない】という面は、美点でもあり、欠点でもあるようです。

私は、書類に必要事項を記入しただけで入信できてしまうような宗教よりはよっぽど安心安全なんじゃないかと思いますが。


入門式の事前面談で「焦らなくてもいい」と言われた友人と私とは専門学生時代から10年来の仲で、これまで定期的に共通の恩師の元で聖書を読んだり、一緒に教会に通ったりしていました。

その間、私は24歳の時に洗礼を受けて、彼女はその時も洗礼式に来てくれたし、後輩が洗礼を受けた時もお祝いに来てくれました。

ずっとそんな付き合いを続けてきましたが、それでも彼女のこれまでの反応を見る限り、もしかしたら彼女にとって私たちとの交流はあくまで人付き合いの一環でしかなく、彼女自身は本当はほとんどキリスト教には興味がないのかもしれないと感じていました。

最初こそ「何故興味がないのに来るんだろう?」と不信に思ったりもしていましたが、単純に交友関係を続けてくれることは嬉しかったし、もし本当に少しも惹かれるところがないのなら10年もの間教会に通い続けるはずもないよなあと思っていました。


それが今年になって、恩師の勧めを受けて入門講座に通うようになったそうなのです。

最初は断りきれず仕方なく通っているのかな?と思っていただけに、入門式を受けるとは思っていなかったし、事前面談で先のようなことを言われたら匙を投げてしまってもおかしくないんじゃないかと思っていました。

以前の彼女だったら、きっと指導司祭に突き放すようなことを言われたらその時点で機嫌を損ねてしまったり、諦めてしまっていたのではないかと思います。

でも彼女は、司祭に対して「でも学生の頃からずっと教会には通っていたし、もっと勉強がしたいんです」と言って食い下がったそうです。

それを聞いた時、私は彼女の変わりように密かにビックリしていました。


入門式の後に彼女と会った時も、言葉では上手く言い表せられないけれど、以前の彼女とは全く違っていて、いろいろなことに対してすごく反応が良かったのでそれにも驚きました。

今までは聖書の話をしても、彼女の表面をするりと撫でて通り過ぎていたように見えたものが、ようやく自分のもののように感じられるようになったのかなと(エラそうな言い方ですが)。


私も元々はバックグラウンドにキリスト教のキの字もない環境で生まれ育ったので、聖書なんて読んだこともなかったし、その中に書かれた言葉なんて空想上のことのようで、完全に他人事でした。

それなのに、時間をかけて読み進め、代母や司祭の指導を受け、洗礼を受け、という段階を積み重ねていくうちに、決して聖書の言葉が他人事ではないと感じられるようになる瞬間が私の中に確かにありました。

聖書の言葉が、ずっと私自身にも呼びかけられていた言葉だったのだと気付いたのです。


こういう書き方をすると胡散臭くて陳腐に感じられると思うのですが、他に書きようがないし、たぶんこれは経験をしないとわからない感覚だと思います。

私のように何年もかけてそのように感じられるようになる人もいるし、聖書を読んだ瞬間にそう思える人もいます(いやはや、本当に不思議なことに)。

私の知人の女性などは、家庭環境が良くなくて高校中退をしており勉強する機会が人よりも少なかった方なのですが、初めて聖書を読んだ瞬間に「この人(キリスト)は本当のことを言っている」と思ったと言っていました。

どうやら学力や読解力とは無関係で、感性の豊かさや鋭さ、それに心が何かに飢え渇いているか、そういう面を持っている人の方が聖書の言葉をストレートに受け止められるのかなと個人的には思います。


少し話がそれました。

ともかく、10年来の友人が、もしかしたら来年には洗礼を受けることになるのかなあ~と今ぼんやり考えています。

友人には恩師がついているので、心配はしていません。

そうなったら嬉しいなと心から思っています。


私にとっては、信仰を持つか持たないか決断することは人生の大きな分岐点のひとつでした。

学校や就職先等の進路を決めるよりも余程大事だったし、もしかしたら人生の伴侶を決めるよりも大事なことだったかもしれないと思っています。

だからこそこの大きな決断をする時に、司祭はあえて私たちを一旦突き放し、イエスと答えるかノーと答えるか、見ているのかもしれないと思います。


私は、「(キリストの)復活を信じられないのなら洗礼は受けなくてよろしい」とお世話になっていた老神父様に言われた時、例え今の時点でキリストの復活がどんなものなのかはっきりとはわからなくても、信じるか?信じないか?と問われれば、迷わず「信じます」と言いたかった。

誰かに恋い焦がれるような、もしかしたらそれよりもずっとずっと強い気持ちで、私は「信じます」と言いたかったのです。

他の何を疑っていても、自信がなくても、この気持ちだけは嘘じゃないと思うことができたから、私は洗礼を受けたのだと思います。


そして彼女も、初めの問いかけに「イエス」と答えました。

目の前に差し出されたものを、「欲しいです」と言って受け取ること。

単純なことだけれど、それはすごく大きな一歩だと思うのです。

そのことが私は嬉しくてたまらないのです。