
- 作者:恩田 陸
- 発売日: 2003/05/20
- メディア: 文庫
舞台は、伝統ある男子校の寮「松籟館」。冬休みを迎え多くが帰省していく中、事情を抱えた4人の少年が居残りを決めた。ひとけのない古い寮で、4人だけの自由で孤独な休暇がはじまる。そしてイブの晩の「告白」ゲームをきっかけに起きる事件。日を追うごとに深まる「謎」。やがて、それぞれが隠していた「秘密」が明らかになってゆく。驚きと感動に満ちた7日間を描く青春グラフィティ。
趣ある学生寮に居残りした4人の男の子が自分達だけで築く生活(たった1週間だけど)という設定に心惹かれた記憶がある。
10年越しに読んでみて抱いた感想は、残念なことに「あ~この本はあの頃読んだから面白かったんだなあ」というもの。
そう感じた理由は、たぶんこの物語の文体がかなり映像的というか漫画的というか、あまり小説小説していなかったところにあると思う。
17歳と言えば読書の面白さに目覚め始めた頃なので(遅咲きだったのです)、このくらいがちょうど良かったんだろうなあ。
それから、私はこの本を読んで「人間の気持ちの複雑さを掘り下げた小説というのは面白いんだな」と初めて気づいた気がします。
登場人物の男の子達はそれぞれの事情を抱えて冬休みに実家に帰らず学生寮に残っているわけですが、今回読んでみて、彼らの心の複雑さの根源は、彼らが大人になる寸前の子供達として「子供故の不自由さ」に藻掻き喘いでいるところにあるように思いました。
綿矢りさ風に言うのなら、”まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでにセックスも体験していない処女の十七歳の心に巣食う、この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう”ってところですかね。
まあネバーランドの男の子達はもっと未来への希望に満ちていると思いますが(笑)
そんな彼らは、初夜の事件を発端にしてあるゲームを始めます。
それが「告白か実行か」というゲーム。
登場人物の一人である寛司という男の子が、マドンナのライブツアーのビデオでこのゲームをやっていたのを見て提案しました。
内容は、カードゲームをして負けた人が「告白」か「実行」を選び、「告白」を選んだら訊かれた質問に正直に答え、実行を選んだら出された命令を何でも聞く、というもの。
このゲームをきっかけとして彼らの抱える問題とその心の内が明らかになっていきます。
子供なりの不自由さに喘ぐ彼らの心は、怒りや失望、自分に対する歯痒さに溢れています。
今になって、あーそうだよね・・しんどいよね・・自由になりたいよね・・と彼らにすごく共感する。
同じ17歳当時に読んでいた時は、私の中にはたぶんまだそこまでの自立心は芽生えていなかったんだろうなあ。
彼らの怒りが噴出する時、それは大人があまりにも身勝手な理由で子供を振り回した時で、年齢的にはまだ子供であったとしても理性がありすでに自分の頭で物事を考えて選ぶ力がある(ただし権利は然程与えられてない)彼らにはそれが苦痛でならないんですよね。
そして、何故大人はあんなにも自分勝手なんだろうって考える。
考えて考えて考えて、結論が出たとしても今の自分では対処できる手立てが限られていて、それが歯痒くてしんどいのですよね。
例えば、男の子達のうちの一人である寛司という少年が、離婚寸前の両親の親権争いに巻き込まれて、以下のようなことを言います。
なんでみんな子供なんて欲しがるんだろう。俺、ここ数年ずっと考えてるんだ。跡継ぎがほしいとか老後をみてほしいっていうのは、意外と二次的な理由なんじゃないかと思う。じゃあなんだろうって考えて、最初は支配欲かなって思ったんだ。権力欲のプライベートなもの。支配という言葉がきつ過ぎるんなら、影響欲とでもいうのかな――誰かに影響を及ぼしたいって欲望、結構あると思う。俺だって、支配欲というとおおげさだなと思うけど、影響欲はあるなと思う。でも、これもなんだかピンと来ないなって思った。それから更にずうっと考えて、最近辿りついた結論が何かというと」
(中略)
「特に女はそうだけど――きっと、自分に「属する」ものが欲しいんだ。「属する」って言葉が一番ピンと来る。はっきり自分のものだと言えるもの。自分の延長線上にあるもの。だから、自分にきちんと属さないものには攻撃を加えるんだ。いろんな理由をつけて。いろんな大義名分で」
ここだけを読むと、寛司くんは自分の置かれた状況をどこか冷めた目で客観視しているようにも思えますが、実際には彼の腹の内は憤りに充ちており、せっかく離婚のいざこざから逃れるために冬休み期間も寮に残ったにもかかわらず両親がそろってわざわざ学校を訪ねてきたのを見て、ついに爆発します。
普段は気立ての良いムードメーカーである寛司が、息子が住んでいる部屋を見てみたいと言って寮に上がり込もうとする両親に対して大声で怒鳴るのです。
「ここには入ってくるな!!」と。
10年越しに読んで、私にはここが一番じわっと来たかなあ。
何の権力もなく肩書も持たない寛司にとって、学生寮だけが大人に侵されずに済む聖域だったというわけです。
この時、寛司の両親は離婚後に父と母どちらについていきたいかという選択権を息子に与えていました。
離婚の事情を説明する時も、「自分達はお前の父と母である前に、一人の男であり女であり、会社では誰かの上司であり部下であり、それぞれの実家では息子であり娘であったりする。自分達にはどの顔(パーソナリティ)で生きていくかを選ぶ権利があり、お前にもそのことを認めてほしい」と言うのです。
ハ~???? 何、勝手言ってんの!? って感じですけどね(笑)
私は個人的にはそんなことを言うのなら子供は作るべきではないと思います。
両親は、離婚してお互いが自由になる権利がある(父母として生きる道を放棄するという意味も含まれる)と主張するのにも関わらず、寛司には息子でいることを強要しているんです。
息子としての彼の居場所を奪っておきながら、息子として父と母どちらが良いか選ぶことまで押しつけてくる。
酷な話だし、もし自分がそんな選択を迫られたら「勝手にやってろー!」って同じように叫ぶと思います。
家庭が崩壊しようとしている以上、寛司には自分の居場所は学校と寮だけです。
特に同級生と暮らす寮は、彼にとっては息子としてではなく等身大の自分として過ごせる唯一の聖域だったのだと思います。
そこにズカズカと土足で入ってこようとする両親に彼が鬱憤を爆発させるのは当然のこと。
結局、彼の両親は息子の人権を認めていないのです。
ただ「俺が俺である」ということを認めて、自由に行かせてほしいだけなのにね。
私も自分の母に思うところがあった子供時代~現在なので、きっと子にそうさせてやれない親は多いのだと思います。
そんなこんなで、彼らにとっての学生寮での生活は、大人になる一歩手前にある不自由な暮らしの中で見つけた楽園=ネバーランドなのだろうなと改めて思いました。
自分が大人になってから読むと、「大丈夫、君らはもうあとほんの少しの辛坊で自由になれるんだよ!」と言ってあげたい気持ちに駆られるお話だった気がします。