【マチネの終わりに】過去は変えられる、ということでしょうか?

マチネの終わりに (文春文庫)

マチネの終わりに (文春文庫)

映画の公開前に読み終わりたいという一心で「マチネの終わりに」完読(パリの石田ゆりゆりにどうしても劇場で会いたかったのだ・・・)。

内容のネタバレがあるので、これから映画を見る予定の方はブラウザバックをば!

恋愛が主題ではない恋愛小説


「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」


主人公である蒔野(プロのクラシックギタリスト)と洋子(ジャーナリスト)の初めての逢瀬の時、洋子の昔話を聞いた後に蒔野はこのように発言しました。

洋子の話の内容は、子供の頃におままごとの台にして遊んだ母の実家の敷石で、後に高齢の祖母が転んで頭を打ち付けて亡くなってしまった・・というもの。

洋子は、昔遊んでいた思い出の敷石でそんなことが起きてしまって、なんだか遣り切れないような思いを抱えています。

これに対して蒔野のマネージャーである三谷は「それは洋子さんのせいではないのだし気に病むことなんて無いですよ」と言う。

三谷の意見の方が一般的だと思いますが、しかし心の整理はそう単純にはいかないもの。

そこで、蒔野が洋子の気持ちへの理解を示すように言った上記の台詞によって、二人の間に強いシンパシーが生まれたように思います。

フィーリングが合うって、こういうことを言うんだろうなあと。


かく言う私も、三谷と同じくこの話にはあまりピンとこなかったのだけど、後の展開の中で、幾度となく「過去は変えられる」という言葉が繰り返されるうちに、ああそういうことか・・と腑に落ちる瞬間がありました。

だからこの物語の主題は、二人の恋愛そのものと言うよりも、蒔野と出会ってから洋子を支え続けた彼の最初の言葉の中にこそあるのではと思ったのです。

私の人生の目的は夫なんです

急速に惹かれ合っていった蒔野と洋子ですが、二人の恋愛にはいくつかの障壁がありました。

そのうちの1つであった蒔野の音楽活動の不調を利用して、マネージャーの三谷が横恋慕するという事件が起こります。

蒔野に恋心を抱いていた彼女は、トラブルで携帯をなくしてしまった蒔野の代わりに“別れて欲しい”旨のメールを洋子に送ってしまうのです。


いや~~~~~このあたりを読んだ時は映画を見に行くの辞めようかと思いました(笑)

平野啓一郎の小説を読むのは初めてだったのですが、彼が出演している「わがままな本棚」という特番を見て依頼気になっていた作家さんで、その分期待値が高かったのです。

恋愛小説にはあまり興味がないけど、平野さんの小説なら!と。

で、思った通りどろどろした要素もなくすごくスタイリッシュな恋愛小説だわ~と嬉しく思っていたのだけど、三谷のあんまりにも愚かな小細工と、それによっていとも簡単に崩れ去ってしまった二人の関係に内心がっかり・・と思ってしまいました。


三谷みたいな馬鹿なことする女いないよ!と思ったけど、いや似たようなタイプはわりといるか・・とすぐに思い直した(笑)

彼女への悪態はつこうと思えばいくらでもつけると思うので割愛します。

それは物語の本質には全く関係ない要素なので(でも平野さんは絶対わかってて三谷みたいな女を投入したよね)。


あ、でも1つだけ。

終盤の三谷の台詞ですが、「私の人生の目的は、正しく生きることじゃないんです。私の人生の目的は夫(蒔野)なんです」というもの。(ちゃっかり結婚して子供まで作っちゃってる)

果たしてそこまで滅私できるものだろうかと思う。

人生において主役を張れるだけの才能や魅力があってもなくても(三谷に言わせれば、自分は主役を張れる人間じゃないから主役級の蒔野の人生の名脇役でいたい、とのこと)自分なりのプライドや美学を持つことはできるし、それが無いのは単純に本人の怠慢や短慮のせいだと思うのだけど。

勝手に他人の人生の目的にされても蒔野だって困るだろうし、これって親が子に勝手に過度な期待をするのと同じ現象な気がする。

やはり女性はそういうパターンに陥りやすいということなのでしょうか。


間違ってなかったと言えるのは、今

初めはたった一通の偽メールのせいでこんなにもあっさり関係が破綻してしまうのか!と驚きましたが、洋子さんが逡巡したあげく引き下がってしまった理由は、彼女がPTSDの症状に悩まされていたというのが大きいと思います。

イラク自爆テロに巻き込まれかけた彼女は、パリに戻ってきた後も東京に行ってからもなお、唐突なフラッシュバックに苦しんでいました。

そんな中で、不安定な精神を揺さぶられるような偽メールが届いたら、多くの人が洋子と同じような反応を示すんじゃないかなと。


精神科医にかかっていた彼女は、医師に言われます。

「もとの自分に戻ろうとするのではなくて、体験後の自分を、受け容れ可能なかたちで作っていくことができれば、症状はやがて消えていくでしょう」

それに対して、洋子は初めて出会った時の蒔野の言葉を思い出し、「過去は変えられる、ということですか?」と尋ねるのです。

そこには、蒔野と自分の間で強い共感が生まれた瞬間を思い返しながら、やっぱりそうだったのね、と真実を掴んだことへの洋子の喜びが感じられます。


さらに、物語の終盤、洋子が映画監督である父を訪ねるシーンがあります。

洋子は、幼少期に父と暮らせなかったこと、父が自身の経歴から母と洋子の存在を抹消していることにずっとわだかまりを抱えていました。

そのことについて初めて父に尋ねてみると、彼は訳あって故国で潜伏生活を余儀なくされた時期があり、妻子を危険に晒すことはできないので両親は離婚して別々に暮らすことになったのだと聞かされます。

愛されていたが故に父から遠ざけられていたことを知った洋子は、その事実に過去の自分の哀しみが浄化されたのを感じたようでした。

「だから、今よ、間違ってなかったって言えるのは。……今、この瞬間。わたしの過去を変えてくれた今。……」

父と寄り添い合う洋子の台詞です。

過去は変えられるって、そういう意味か・・とこの時よくよく分かった気がしました。

二人の過去が変わる瞬間 ―マチネの終わりに―

蒔野と洋子、二人の間で共通した観念である「過去は変えられる」ということ。

未来の出来事によって、過去は如何様にも姿を変える。

別々の人生を歩みながらも、ずっと互いを心の支えとしてきた二人は、もし次に再会することがあったならその時に一体過去がどのように変わるのか?と考え続けています。

二人とも理性の面ではもう二度と会わない方がいいと思っているのに、ふと気がつくと「彼(彼女)に会いたい」と考えている。

そんな葛藤の中で洋子が訪れたニューヨークにおける蒔野のリサイタル、マチネの終わり。

ラストに描かれる、二人の過去が変わろうとする瞬間はとても美しかった。


もしも二人が最後まで会わずに終わったら・・・もしくはものすごく歳を取ってからの再会になってしまったら・・・とソワソワしていたので、本当に良かった。

お互いに子供がいたり配偶者がいたりして、不誠実なことはできないという責任感も持ち合わせている上で、それでももう一度出会うことを選んだ二人が尊い

この後どうなるのかまでは描かれていないけれど、きっといつか二人が毎日を一緒に過ごす時が来るんじゃないかなと思います。

過去の自分のために読むのならば

ラストも大変綺麗だったけど、一番心に響いたのは洋子と父との対話の部分だったように思います。

父の口から語られた真実を知ることで子供の頃の洋子は“今”救われたのだとハッキリ感じられて、じんわり来ました。

「もとの自分に戻ろうとするのではなくて、体験後の自分を、受け容れ可能なかたちで作っていくことができれば、症状はやがて消えていくでしょう」

繰り返しになりますが、洋子のかかりつけの精神科医が言ったこの言葉。

これは、PTSDという重い症状に対してだけでなく、それよりも小さな(けれど本人とっては痛手だった)過去の辛い記憶・哀しい思い出に対しても言えることなのかなと思いました。

体験してしまったことを無かったことにはできないのだから、もとの自分を取り戻そうとするよりも、体験後の自分を受け入れること。

その過程が難しいのでしょうけど、問題の大小を問わず過去を変えることはきっと可能であるから、人間は生きていけるのだと思うのです。