【ユージニア】何かを知っている、というのは罪なのだろうか。何かが起きるかもしれない、と知っていることは?

ユージニア (角川文庫)

ユージニア (角川文庫)

北陸・K市の名士・青澤家を襲った大量毒殺事件。乾杯の音頭の直後、皆がもがき苦しみ始めた。家族・親族、相伴に与った業者、遊びに来ていた近所の住人・子どもたちも合わせて、17名が死亡した。現場には、ユージニアという意味不明の言葉が出てくる詩のような一通の手紙が残されていた。
事件は混迷を極め、捜査は遅々として進まなかった。しかし、事件から約3カ月が経過した10月も終わりの頃、一人の男が自殺した。不眠と妄想に苛まれ、精神科への通院歴もあったこの男が、今回の事件をやったのは自分だ、と遺書を残していたのだ。不明な点もあったものの、事件は一応の決着を見た。
事件から数十年、見落とされていた事件の「真実」を人々が語り出す。



作中で大量毒殺事件が起きたとされる「北陸のK市」は、すぐに思いつくかと思いますが、金沢市のことです。

そのため、昨年の夏に金沢旅行を計画していた時にふとこの本を読みなおそうと思いました。


最初からネタバレしてるのでご注意をば

物語は、大量毒殺事件に巻き込まれかけた少女・雑賀 満喜子が、大学生になって卒論の題材としてこの事件を選ぶところから動き出します。

書き終えた卒論はやがて本として出版することになるのですが、彼女は事件の再調査を通して、真犯人が誰であったかを知ってしまうことになるのです。


ネタバレしてしまいますが、犯人は当事件で殺害された青澤一族の長女であり、唯一生き残ったとされている青澤緋紗子でした。

当時、緋沙子が盲目であったことから殺さなくても差し支えないと犯人に判断され、彼女だけがかろうじて生き残ったのだと推測されていましたが、実は犯人に配達物の酒や飲料水に毒を混入するように促したのは緋沙子本人だったのでした。

事件前後に彼女の周囲にいた数名が、「この人が真犯人だ」と確信するに至るまでの経過の書かれ方が、自分としてはとても面白かったです。


以前から再三書いているのですが、私は、恩田陸の小説は純粋なミステリとして読むのではなく、物語全体に流れる美しくも不気味・不穏な空気を味わうのが一番楽しい読み方だと思っています。

この作品も例に洩れず、通常のミステリ小説のように“証拠が出てきて真犯人が捕まる”という結末にはなりません。真犯人と実行犯、両者の動機さえ語られません。

緋沙子が直接手を下したわけではなく、毒を混入した犯人とのかかわりを立証することもできないので彼女を容疑者として検挙することはできないのですが、物語の終盤では緋沙子が真犯人であることを確信しているとある登場人物が彼女に会いに行き、核心をつくような会話をします。

そのくだりが秀逸と言いますか。

私は一人になりたかっただけ

緋沙子は、自分は犯人に対して「私は“一人になりたい”と言っただけよ」と言うのです。

それを、彼(犯人)がどう受け取るかなんて、私には想像もつかないことだった、と。

しかし、読んでいくとわかるのですが、緋沙子はおそらく故意に犯人をそそのかすような言動をしており、犯人は彼女に影響されて犯行に及んだと思われる描写があるのです。

つまり緋沙子は、あくまで白を切っているというわけです。


・・・と、読者は考えると思うのですが、私自身初めて読んだ時はそうに違いないと考えたのですが、再読した後では少し感想が変わりました。

もしかしたら緋沙子は真実を語っているのかもしれない、と。

彼女は「一人になりたい」という願望を抱えており、そのためには家族は邪魔な存在で、もしかしたら「消えて欲しい」くらいのことは日頃から考えていたかもしれません(年頃の子にはよくある発想ですしね)。

でも、本気で殺すつもりなどなかった。というのが真実に近いのかなあ?と。

ただ、緋沙子が実行犯をそそのかしたのは事実で、事件の日に「何かが起こるかもしれない(起こらないかもしれない)」ということを、彼女があらかじめ知っていたというのも事実だと思います。

緋沙子の真意が明確でないところ、最終的には読者の判断に委ねるようになっているところが面白い。

母の存在

清純で美しく、当時の満喜子の目には完璧であるかのように映っていた緋沙子。

ハンディキャップである盲目でさえ、彼女の神秘性を高める要素のように思われる少女が人知れず抱えていた仄暗い苦しみ。


過去を遡る物語の中ではそれ感じさせる描写がいくつかあり、緋沙子の心に暗い影を落としていた最も大きな要因は、おそらく彼女の実母であることが読み取れます。

緋沙子の母は敬虔なクリスチャンなのですが、なんと言いますか、信仰と強迫観念をはき違えていて、その恐怖をそのまま娘に押し付けているような人なのです。

人間は罪深いの。生まれながらにして犯している罪も沢山ある。この世に生まれ落ちたことがその証拠なの。人間は罪を悔い改めながら生きていくの。ごらんなさい、この世がどんなに苦悩に満ち、血と暴力に満ちていることか。こんな世界に生まれ落ちることが罪でなくて一体なんだと言うの? これが人間が罪深いことの何よりの証拠よ。歓びはほんのつかのま。苦しみの海につかのま射し込む弱い光に過ぎないの。悔い改めなさい。孤独に生まれ落ちた瞬間から、罪は罪。自分の背負う罪を自覚することが大切なのよ。祈りなさい。必ず誰かが見ている。罪を犯したところを、誰かがきっと。罪深き堕落を、邪な意志を。そんなあなたを、誰かが必ず見ている。


前触れもなく急に始まるこの強烈な独白。

これはおそらく緋沙子の母の言葉で、昔読んだ時もゾッとしましたが、今回再読した時にはそれだけでなく怒りにも似た感情がわきました。

娘の緋沙子にとっては母親のこの言葉はきっと脅しのようにも感じられたことだろうと思います。

そう思うと、事件と母親との関わりは最後まで語られず仕舞ですが、もしかしたら母への復讐の衝動に駆られた緋沙子が殺意を持って犯人に殺人を促した可能性もありますよね。

どちらにせよ、あの事件が緋沙子にとっては生涯抱え続けなければならない本当の罪の始まりだったのだと思います。

“部屋”の認識違い

緋沙子は事件直後の事情聴取で、「壁が一面真っ青な部屋に連れていかれてとても怖かった」「私はそこに入りたくなかった」と、唐突に目が見えていた頃の思い出話をしています。

卒論のために過去の反芻をしていた満喜子は、緋沙子のこの発言を思い起こし、現場に居合わせたものの自分ひとり生き残ってしまった(家族が藻掻き苦しみ死んでいく様子をただ聞いていた)という凄惨な経験をした彼女は、未だ混乱状態であるために過去に見たことのある風景について脈絡もなく話しているのだろうと受け止めていました。

兼六園の中にある成巽閣という建物に「群青の間」という部屋があり、これが壁一面が青色に塗られた造りになっていて、満喜子は緋沙子が言っているのはこの部屋のことだと思い込んでいました。


しかし実際には、この“真っ青な部屋”というのは、緋沙子の母が祈祷部屋として使っていた自宅の小部屋のことで、まだ目が見えていた小さな頃から緋沙子は母にこの部屋の中に入れられて、前述した威しを延々と聞かされながらお祈りを強制されていたと思われます。

一種の虐待に近いし、子供にとってはきっと怖い体験だったに違いありません。


満喜子がこの勘違いに気づくことなく物語は終わるのですが、最終的には読者にだけ真実がわかるように書かれていて、うあああ~~~となります。

キーワードは、百日紅の花ですね(読んだことのある人にはわかるはず)。


ちなみに私は、昨年の金沢旅行でしっかり成巽閣にも行ってきました!

当時の御殿様の正室の住まいとして建てられたものらしいですが、古めかしさの中にも趣がありとても良かったです。

小説の舞台になった場所に行くというのは、いくつになってもワクワクしますね~。





最後に。

この本の中に出てくる“夢の通い路”という鶴の折り紙の折り方を、当時図書館の本を借りて自分でも折ってみたことを唐突に思い出しました。

読書の思い出って色々なものに繋がっていくのが何だかホッと心があたたかくなる感じがしていいなあと改めて思います。