【罪と罰】あなたが穢した大地に接吻しなさい

※いつも以上にダラダラと書きます!
※有名作品なので今更ネタバレもないと思うので、がっつり内容に触れます。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)



罪と罰との出会い

私にとって「罪と罰」は、思い出深い作品だったりします。


あまりにも有名な作品ですから今まで生きてきた中で何度もそのタイトルを目にしてきたわけですが、最初にはっきりと心に留めたのはおそらく伊坂幸太郎の「グラスホッパー」を読んだ時だったと思います。


グラスホッパー (角川文庫)

グラスホッパー (角川文庫)


鯨、と呼ばれる「自殺(させ)屋」がいつも読んでいる本で、他の本は一切読まず、「罪と罰」だけを繰り返し繰り返し読み続けている。「逆から読んだら“唾と蜜”」とか、そんなことを言っていたような。



2度目に強く意識したのは、「わがままな本棚」という関東ローカルの番組で芸人の若林さんが好きな本として紹介していた時。

作家の平野啓一郎さんと交互で本を紹介し合い、最終的にひとつの本棚を作成する、という番組の流れだったのだけど、この時の平野さんの作品への指摘が面白くてですね。

この時点で罪と罰のあらすじは知っていましたが、主人公が最後どうなるのか?ということは知らなかったので、平野さんの言葉ですごく興味深くなりました(以下参照。主人公は結局反省してない、というくだりですね)。


matome.naver.jp

放映内容より:
又吉:では若林さんが一冊目に選んだ本を教えてください。
若林:私はこのドストエフスキー罪と罰にしようかなと思いまして。
又吉:なるほど
若林:これ29くらいの時に、事務所の芸人があんまり好きじゃなくって
又吉:(笑)それは言っても大丈夫なんですね。
若林:もう今は大丈夫で、もうずっと独りだったんですよ。
又吉:はい
若林:この人もずっと独りで、独りで居るとヤバい事になるなって思ってて
又吉:(笑)
若林:当時風呂無しだったからコインシャワーへ行ってたんだけども、29でエアーガンを腹に入れてコインシャワーへ行ってたのよ。
又吉:それはもう相当ヤバい奴ですよ。
若林:いやそうなのよ。で俺コミュニケーション取れる人が居なくて独りで居ると、ヤバい事になるなってたまにこれ思い出して怖くなる訳ですよ。
又吉:なるほど
若林:映画のタクシードライバーとかも

(中略)

若林:平野さんの中でこの作品はどういう作品ですか?
平野:僕もすごく好きな作品ですね。言ってる事は一つの理屈なんですよね。ナポレオンとかだってあんなにいっぱい人を殺して英雄って言われてて、大きな立派な事をする為には途中には人が死んでてもう人類は認めてきてるじゃないかと。俺もこれからすごい事するのに、世間みんなでシラミとか言われてるような金貸しの婆さん一人殺したっていいじゃないかっていうのは、なんかこう人類の永遠の矛盾を突きつけているようなところがあって僕はモデルガンは腹に差してませんでしたけども
若林:(笑)昔なんで
平野:結構共感しましたし、僕この小説は最後まで読んで結局イマイチなんで俺が悪かったのかなってピンと来てないような
若林:なんか反省してないみたいなのがちょっと出てきますよね。
平野:(笑)最後シベリアに行ってからも「俺には二つわからない事がある」って言ってて、一つは「なんで俺はこんなに流刑者達から蔑まれてるのか」というのと、「なんでソーニャはそんなに皆から尊敬されてるのか」ってのは『なんかわからん』って書いてあるんですよね
若林・又吉:(笑)
平野:そこがやっぱりこの作品はある意味現代的っていうか最後にこう・・・例えばキリスト教の教えを受けてすごい善人になるとかじゃなくって、なんかもうギリギリまで反省したかに見えつつピンと来ていないってところが好きなんです。


今改めて読んでみたら、若林さんの「独りで居ると、ヤバい事になる」っていうのも興味深いですね。

ちなみに、若林さんは若い頃エアガンを懐に入れてコインシャワーに行っていたそうですが、又吉さんも天狗のお面をつけて始発の総武線を小高い丘から見送る、というルーティーンというか謎の性癖をお持ちだったようで、どっちもどっちでなかなかヤバいと思います(笑)

私今29歳だけどエアガンお腹に隠して銭湯行こうとかぜっったい思わないもんなあ。

2人のこの行動を、平野さんが「精神医学的に見たらエアガンも天狗のお面も男性性の象徴」と表現したために、分析したら全部性欲の所為になっちゃう・・・(笑)みたいな空気が流れてて可笑しかった。

でも、この分析も然もありなんという感じがするんですよね。



そして最終的に、読むか・・!とようやく重い腰を上げたのは、実は「罪と罰」が夫の好きな小説だったからです。

同じ本を読んで、感想を言い合うっていうのを一度やってみたかったんですよね。


で、実際読んでみて、すごく面白かったです。

ドストエフスキーの小説の特徴なのか、ロシア人が本当にあんな感じなのかは知りませんが、ま~登場人物たちがよく喋る喋る。

ロシア文学にはずっと暗いイメージがあったのですが、それが一転して、ある意味で陽気な小説だなあと思いました。

ラスコーリニコフ的な人たち

物語の冒頭で殺人を犯す主人公“ラスコーリニコフ”。

まず、殺人を犯すまでのグダグダ感が今思えば面白いです。

綿密に計画して、準備して、何度も頭の中でシミュレーションして、自分がこれから殺人を犯す言い訳をくどくどと考え続けています。

彼が殺人を犯すことの大義名分として考えたのが、平野さんの言葉をそのまま借りるなら、「ナポレオンとかだってあんなにいっぱい人を殺して英雄って言われてて、大きな立派な事をする為には途中には人が死んでてもう人類は認めてきてるじゃないかと。俺もこれからすごい事するのに、世間みんなでシラミとか言われてるような金貸しの婆さん一人殺したっていいじゃないか」という言い訳。


わがままな本棚の中では、若林さんを始め、男性陣は「ラスコーリニコフの言っていることもわかる気がする・・」と言う。

そして、現実でどう行動するかはさておき、私の夫も「ラスコーリニコフの考えには一理ある」と言っていました。

罪と罰」が好きだと言う男性は、大抵ラスコーリニコフの意見に賛同しているようです(女性はどうなんだろう)。

これは興味深い傾向だ、と個人的には思います。


勝手な憶測ですけど、どの時代でも徴兵されるのが基本男性であったことを考えると、戦争が人を殺すことを前提としている以上、男性達は人殺しに何らかの大義名分を見出さなければやっておれなかったのかな、という気はします。

彼らの多くは、国や家族、友人を守るために戦ったわけだし。

男性の性としてそういう思想が根付いているからなのか、異分子や楯突くものを力尽くで排除することを厭わない、ある種冷酷とも取れる面を誰しも持ち合わせているのかもしれない・・なんて。


しかし一方では、このタイプのヒーローラスコーリニコフはじめ、地下室の手記の主人公、タクシードライバーのトラヴィス、昨今の例で言えばジョーカーもそんな感じでしょうか?)からは強烈な自己愛も感じる気がするんです。

女性にも自己愛が強い人はたくさんいるけど、それとはまた表現方法が違うと言うか。

彼等が深く傷ついているのは事実だと思うけど、何というのかな、これ以上傷つきたくないからだろうけれど、俺可愛さ故に暴力的な思想に走りがちな傾向がある気がする。

しかし、物語の流れを見ていくと、彼等の寂しさはほとんどの場合パートナーができて性欲が満たされれば解消されるんじゃないか・・という気もする。

先のヒーローも全員(ジョーカーは知らないが)、女絡みでも悶々としてますもんね。

もちろん男性が皆性的欲求不満の解消のためだけに女を必要としているとは思っていませんが、女性に比べたら遥かにその要素は強いのだろうと思う時があります。

さすがに男性に失礼すぎるか。


でも私は、あんまり拗らせすぎてるのはゴメンですが、このタイプの男性は結構愛らしいと思うのですよね。

何も考えずに脳天気に生きてる人よりはずっと魅力的な気がする。

若林さんなんか完全にこのタイプかなーと思いますけど、彼等のように溜まった鬱憤をエネルギーにして良い方向へ昇華させられる人はすごいと思うし。



話を戻して。

かくいう私は、ラスコーリニコフの言うことは極論だと思いました。

そして、正当性のある殺人が存在するかどうか、ということを論じるよりも先に、こういう人は「自分が排除される側になる可能性もあることには思い至らないのだろうか?」と心底不思議に思いました(男性陣、どうなのでしょうか)。

いや、黙っていたら自分や自分が守るべき人が排除されてしまうかもしれないから、それよりも先に相手を排除しようと試みるのでしょうか。


もし自分が排除される側の人間であったら?

別に、排除される側が悪であるから、間違っているから、という理由だけでその対象になるわけではないのは歴史を振り返るに明らかだと思います。

消される側に理があっても、消される時は消される。

しかも、多くの場合、その時対象とされるのは少数派に属する人たちだろうと思うのです。


多数派に属していると、“自分とは違う誰かががいる”ということに鈍感になりがちです。

そのせいで、知らず知らずのうちに選民思想に走ったり、排他的な態度を取ったりしていることがある。

でも、カードを裏返すかのようにたちまち自分が少数派の人間になってしまうことも人生の中には充分あり得ることで、そうなってから気付いてももうどうしようもない場合もあるでしょう。

私は、ラスコーリニコフ的な人が、そういう時にどんな反応をするんだろう? と疑問です。

それとも、「そんなことはあり得ない」と一笑に付すんでしょうか。

「あなたが穢した大地に接吻しなさい」

ラスコーリニコフは、金貸しの婆さんだけを殺すつもりが、偶然居合わせた婆さんの妹も一緒に殺してしまいます。

その後の彼の滑稽なほどの慌てふためき様、盗んだ金品をある場所に隠すのですが、隠したことがバレていないかどうか何度も様子を見に行ってしまったり、むしろ自分がやらかしたことを察せられてしまうような怪しげな、しどろもどろな言動をしたり、もうハチャメチャです。

いっそのこと可愛く思えてくるくらいです。

実際、気が小さいからこういうことになるのだと思うのですが、それは本人も最終的には認めるところで、わかっていた、実際俺は、歴史上の偉人のようになれはしない、平凡な男なのだ、とはっきり独白するシーンもあったと思います。

こういうところがきっと読者の心をくすぐるのだと思います。ラスコーリニコフ、なんかいじらしくて、憎めないな・・と。


彼には、とある事情から知り合ったソーニャという娼婦の女性がいました。

ソーニャは親の作った借金返済のために体を売っていたのですが、ラスコーリニコフはある時彼女に自分の罪を告白します。


すると、彼のしたことに恐れおののいた後、穏やかなソーニャが強い態度で「あなたが穢した大地に接吻しなさい」「そうすれば神様はもういちどあなたに命を授けてくださるわ」と言うのです。

ラスコーリニコフは、一度は彼女の言葉を拒否しますが、罪の意識に大いに苛まれ、精神的に追い詰められていたため、最終的に自分の犯した罪を認めます。

ふいにソーニャの言葉を思い出したのだ。「十字路に行って、そこに立つの。そこにまずひざまずいて、あなたが穢した大地にキスをするの。それから、世界中に向かって、四方にお辞儀をして、みんなに聞こえるように『私は人殺しです!』って、こう言うの」
その言葉を思い出すと、全身がぶるぶると震えだした。そして最近、それも特にこの数時間おしつぶされつづけてきた出口の見えない憂鬱と不安のせいで、彼はこの穢れない、新しい、充実した感覚がはらむ可能性のなかに身を躍らせていた。その感覚は、発作のようにいきなり襲いかかってきた。心の中にひとすじの火花となって燃え始め、とつぜん、炎のように自分のすべてをのみつくした。自分のなかのすべてが一気にやわらいで、涙がほとばしり出た。立っていたそのままの姿勢で、彼はどっと地面に倒れこんだ・・・・。広間の中央にひざまずき、地面に頭をつけ、快楽と幸福に満たされながら、よごれた地面に口づけした。起き上がると、彼はもういちど頭を下げた。


この後、ラスコーリニコフは「私は人殺しです!」と言う前に通行人の野次を受けたため、その場を立ち去ります。

私は、この時、ラスコーリニコフは自分の罪を認めてその罪と向き合って、神に謝罪したのだと思います。

その後ですぐに悪態を吐いていたとしても、大地にキスをした時の気持ちは本物だったと思うのです。

だから、このシーンは好きですね。

赦し(許し)とは?

上記のシーンについて、夫が「大地に接吻しただけで人を殺したことを(神に)許してもらえるの?」という感想を述べていて、私は面白いことを言う人だなあと思いました。


他の作品でも似たようなことを訊かれたことがあって、見たことがある人にはわかると思いますが、ゴッドファーザー3でマイケル・コルリオーネが兄のフレドを暗殺したことについて教会で告解するシーンがあります。

毅然としてドンの仕事をこなしてきたマイケルが、3の中盤で嘘のように嗚咽しながら、「自分は兄を、父の、母の息子を殺しました」と告白するんですね(私はビッショビショに泣きました)。

マイケルが、どれだけ恐ろしい良心の呵責、罪の意識に長い間苛まれてきたんだろう、と思うと、眩暈がします。

もちろん罪は罪に違いないのですが。


夫はこのシーンを見て、「告解すれば、兄を殺しても許されるの?」と言っていました。

純粋に不思議なのだと思います。それをクリスチャンの私にぶつけてきている。真っ当な疑問とは思うけれど、些か幼い質問だな、とも思いました。


当時のロシア人の正教徒がとる謝罪スタイルが「大地へのキス」だったのかもわかりませんが、あくまでそれは許しを請う時の“形式”の話であって、決して=大地にキスすれば人を殺しても許されるという意味ではないはずです。

日本の習俗の中でも、お寺や神社への参拝の作法は定められているしね。

しかし、日本人の多くが初詣の時だけ「今年も家族が健康であります様に」とか「受験に受かります様に」とかお願いするのとは別で、ソーニャがラスコーリニコフに薦めているのは自分が犯した罪に対する「心からの悔恨」です。

なので私は、夫への回答として、以下の4つのようなことを話しました。


・大地へのキスは、謝罪の時のスタイルというだけで、キスすれば許されるということではない

・そこに、心からの悔恨がなければ意味がない

・本当に後悔しているのなら、神様は許してくださる

・でも、社会的な罰は当然受けなければならない


夫は納得したようなしていないような、ふ~~~んって感じの反応だったし、この質問自体も冗談なのか本気なのかはっきり判断がつかなかったですが・・・。

おそらく、神に向かって謝罪しただけで悪い行いが許されることが納得できないのだと思います。

真面目に生きている人ほどその自負があるからか、悪人がただ神に詫びただけで許されるなんて許せない!と感じるのでしょう。

その気持ちもわからなくはないですが、誰しも100%正しい人なんていないし、何の罪も犯していない人はいないと思うのです(社会的に罰せられる規模の罪ではないというだけで)。

そのことを棚に上げて、アイツが許しを請うただけで許されるなんて不公平だ!と騒ぐ人は、思いの外多い気がします。


私は、罪を罪と認めることも苦しみだと思うし、それを心から後悔して、誰かに許して欲しいと懇願することも辛いことだと思いますけどね。

その瞬間、恥もプライドも書き捨てて泣いて「許してください」と叫ぶことが出来る人は、大人になればなるほど少なくなっていくんじゃないでしょうか。

しかし、神はそういう人のことを見捨てず、むしろ抱擁で受け止め、再評価するチャンスを与えてくださるということです。

聖ペトロや聖パウロがそうであったように。

ラスコーリニコフが信じたもの

若干話が逸れつつありますが、夫の感想はなかなか自分の視点とは違って面白いものがありました。

夫は良識ある人間なので、人殺しが罪であることは知っています。

しかし、究極の選択を迫られた時は、「多を救い、少を捨てる」選択は正しいという考えの持ち主です。

私は、自分がその時、絶対に夫に捨てられる側に属していないだろうという確信は持てません。

夫のような人は、私みたいな人間もいるのだということについて、どう思うのでしょうか(夫とは、そこまで議論を深めたことは、今のところありません)。


ところでラスコーリニコフは、長らくジタバタともがきながらも、最終的にはソーニャの言うとおり大地にキスをして、自白をし、シベリアで服役することになります。

でも彼は実際、平野さんの言うように、キリスト教の教えを受けてすごい善人になるとかじゃなくって、なんかもうギリギリまで反省したかに見えつつピンと来てない」んですね。


でもこれは然るべき反応と言うか、当たり前のことなんじゃないかなと思うのです。

そんな、劇的な大回心なんて早々起こるものじゃないし(パウロの回心とかは、特別ですよね)、普通の人なら、突然「神からの啓示を受けて敬虔なクリスチャンになりましたっ!これから一切清く正しく生きますっ!」というふうになることは、そんなに多い例ではないかと。

皆、疑いながら、不安を抱きながら、でもこちらが良い、これが良い、というところを理性的に、直観も頼りにしながら手繰り寄せて近づいていって、そうして生きていくのだと思うのです。


こういうことを考えている時、私は芸人の又吉さんが遠藤周作の「沈黙」の帯にこのように書いていたのをいつも思い起こします。

人生に必要なのは悟りではなく迷いだと思います

abomi344.hatenablog.com

まさにその通りだろうという気がしています。

そして、これぞキリスト教文学なのである、と。

罪を犯したから、反省していないから、踏み絵を何度も踏んだから、信仰を捨てたから、だからこれはキリスト教を冒涜する小説だ!とか、作者は懐疑的なのだ!と判断するのは、あまりに短絡的です。


話を戻して。

ラスコーリニコフはソーニャの指示に従う様な形で最後に自白することになりますが、何故彼がソーニャの言うことを聞いたかと言えば、ソーニャはきっと嘘は言わない、本当のことを言っている、彼女なら自分を裏切らないだろう、という確信が彼の心のどこかに芽生えていたからだろうと思うのです。

もし、その辺の適当な宣教師っぽい人が「あなたの罪を悔い改めなさい」なんて拡声器で喋ってても皆まともに聞きませんよね。

でも、信頼している人の口からそのような言葉が出たら、ふと立ち止まって考えることもあるのではないでしょうか。


私は、ラスコーリニコフはソーニャを信じたから、自分の罪を認め、心からの悔恨を(あの大地にキスした瞬間だけでも)することができたのだと受け止めています。

その心はまだ芽生えたばかりで育ちきってはいないけれど、それでも大地へのキスは必要な通過儀礼だったのだと思うのです。


また、神を信じず、人を信じたのなら、それでは意味がないんじゃないか? というわけでもないと私は考えています。

多くの人が、まず、身近な信仰者の姿を見て自分の信仰を始めるか否かという岐路に立たされるので。

神を信じるソーニャをラスコーリニコフが信じたのなら、これは、救いあるラストであったと私は思わざるを得ないのです。

希望的観測すぎるでしょうか。


掘り下げようがあるからこそ、今も沢山の研究者たちがドストエフスキー文学について議論を重ねているのでしょうが、いつか解説本なんかも読んでみたら面白いかもなあと思うのでした。