(約)10年前の私は

たまにはお題に挑戦してみます。

今週のお題:二十歳



過去の感傷に浸るのはあまり好きではない。が、20歳はすべてが変わった年だった。


20歳になる直前の19歳の夏、私は初めての一人旅をした。

恩田陸の「まひるの月を追いかけて」に影響されて、奈良の明日香村に向かった。

まひるの月を追いかけて (文春文庫)

まひるの月を追いかけて (文春文庫)

新宿から深夜バスに乗り込み、明け方まで走ると、午前9時ごろに平城宮跡についた。

その年はちょうど遷都から1300年だった。

奈良公園で鹿を見て、東大寺春日大社を巡り、明日香村ではレンタルサイクルを借りて自転車で遺跡を見て回った。

とんでもなく暑かった。

意識朦朧とする中で、「まひるの月を追いかけて」に出てくるシーンを思い浮かべながら実際の風景を眺めた。

フムフム、ここがあのシーンの寺だなあ。とか、一人でわくわくしながら、勇んで自転車を漕ぎまくった。

汗を流しながら甘樫の丘を登り、「私は一体ひとりぼっちでこんなところに何をしに来たんだろう」と、ふと思った。

漠然とした寂しさが込みあげてきて、すべてが無意味だと感じた。

登り切った丘の上には人っ子一人おらず、やっぱりひとりぼっちで、しばらくの間美しい明日香村の風景を眺めていると堪らない気持ちになり、私は泣いた。

大げさだけれど、生きていてよかったと思った。


あんまり簡単に裏返しになるあの頃の情緒を、今も私は持ち続けているだろうか。

つらい時代だった。けれど、あの時ほどの感受性の豊かさは、きっともう戻ってくることはないと思う。



2日目、足掛けで京都に行く頃にはすっかり疲れきっていて、結局ほとんどの時間を喫茶店で読書に費やしてしまった。

もったいないことをしたと思う。


お土産をたらふく買って、夕方バスに乗り込む前に財布の中を確認した。

過保護な母からは、「お金が足りなくなったら連絡しなさい。口座に振り込んであげるから!」と、事前に言われていた。

残り5000円、バスのチケットはもう買ってあるから、十分足りる。


しかし停留所で待ちながら、19歳の私はふと「いくら待っても東京に戻るバスが来なかったらどうしよう」と思った。

残り5000円、もしバスに乗れなかったら、チケットを買いなおすにはお金は足りなくなってしまう。

さっきは大丈夫だと思ったはずなのに、急に不安になる。


私は、口の中で、アヴェ・マリアを唱えた。

恵みあふれる聖マリア 主は貴女とともにおられます

あの時の私にとって、それは不安をかき消す呪文のようなものだった。

主は貴女を選び 祝福し 御体内の御子 イエズスも祝福されました

そうしているうちにバスが来て、私は無事に新宿に帰り着くことができた。



夏休みがあけて学校が始まると、旅行に持っていくために図書館で探したけれど見つけることができなかった「新約聖書」を、教師からもらい受けた。

初めて読む新約聖書は、まったく意味がわからなかった。


そんな鈍い私に対して、教師はいろいろな話をしてくれた。

はじめに「神とは」「信仰とは」といった、まるっきり縁遠く思えるようなことについて話し合い、理解を深め、次第にそれが「私は何を信じるのか」「何を選ぶのか」「どう生きていくのか」という、しっかりと自分に関係のある議題に変わっていく。

私は、その時はじめて「神」と「私」に微かなつながりを見た気がした。

ずっとずっと遠いところにあり、神話や御伽噺の中の存在だと思っていたものが、現実として、地続きになって自分に紐づいていることを感じた。

ここに行き着くまでのプロセスを根気よく辿ってくれた教師には感謝の気持ちしかない。


その年の冬には祖父母の自宅に行った。

子供の頃から慣れ親しんでいたと思っていた祖父母の部屋の本棚に、たくさんの某新興宗教の教祖の著作本が並んでいることに初めて気づいた。

それを見て何故か悲しくなって、休み明けに教師に会った時、そのことを話しながら私は泣いた。

新興宗教への偏見や嫌悪から泣いているのではなく、今まで自分が如何に周囲を取り巻く環境に無頓着であったかを知らしめられた気がして、それが無性に遣る瀬なくて泣いたのだった。

あの時感じた悲しみを、今でもはっきりと覚えている。



そうこうしているうちに私は二十歳になった。

大した感慨はなかった。

どちらかと言うと18禁が解禁された時の方が大事件であった。

とりあえずこれからは大っぴらに酒が飲めるのだ、と思った。


成人式の日、振袖に興味がなかったのと、寒い中、朝早く起きて着付けのために出かけなきゃならないのがどうしても嫌だった。

どうせ式に出ても皆で記念写真を撮るだけじゃない。

姉ちゃんがちゃんと着て写真撮ったんだから、私はやんなくたっていいじゃない。

そういう理由で、私は成人式はすっぽかした。

いつか着ておけばよかったって思うよ、と言われたけれど、それから(約)10年が経ちそうになっても今のところ特に後悔の念は沸いてこない。



21歳になる春、私は学生生活を終えて社会人になった。

そして数年後の24歳の夏に洗礼を受けた。


遠藤周作は、「イエスの生涯」の中でこう言った。

エスが一度その人生を横切った人間はイエスのことをいつまでも忘れられなくなるのである

イエスの生涯 (新潮文庫)

イエスの生涯 (新潮文庫)

  • 作者:遠藤 周作
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1982/05/27
  • メディア: 文庫


不思議だが、その通りだったと思う。

21歳になる春に学校を卒業し、それから数年の間、会いたいけれど気軽に会えない相手を想うかのように、たびたびその人のことを思い出した。

恋焦がれる、という感覚に近いのかもしれないが、私はああいう気持ちを他に知らない。

そうして私は、時を経るごとに「きっといつか私は洗礼を受けるであろう」という根拠のない確信を深めていった。

きっかけはそう遠くない未来にやってきたのだけど、すべての始まりだった20歳の1年間は、私にとってその後の人生を大きく分かつ分岐点だったように思う。


あれがなければ、これがなければ、今の私はいなかった。

20歳の1年には、そういうものがいくつも転がっていた。


現在の悩み、将来への不安、揺れ動く情緒に翻弄され、よく怒り、よく泣き、楽しみもある半面、つらい1年だった。

しかし、この先の10年、20年もずっと、この1年が鮮やかな記憶として私の中に残り続けるだろう。

そのくらい充実した”二十歳”だったと、今は思う。