先日、10年来の友達から連絡がありました。
半年くらい前にカトリックの入門式(これから教会で勉強します~という意思表示的なもの)を受けた子なのですが、今度の復活徹夜祭で洗礼を受けることに決めたそうです。
↓この記事で書いた子です。
「良かったら(洗礼式を)見に来てね」と連絡が来たので、「行くよ~~」と返事をしておきました。
彼女も私と同じく、クリスチャンではない家庭出身なので、両親に伝えるかどうかはまだ迷っているようでした。
そうそう。
先祖代々信者である家系でもないのに、「わたし、クリスチャンになります」なんて決断をするのは、実はかなり勇気がいることです。
だって、本当ならそんなことしなくても生きるだけなら生きていけるし。
もしかしたら自ら足枷をつけることになるかもしれない?なんて、そこはかとない不安さえ抱いていたりするんです。
じゃあ私たちがとんでもない変わり者なのか? と言われれば、別にそういうわけでもないと思います。
むしろ凡人です。平々凡々だから、不安なのです。でもそれでいいと思ってる。
学生時代は気ままに遊んでいたし、恋愛もしたし、音楽も好きだしライブも行くし漫画も読むし映画も見るし、その辺にいる普通の学生と一緒でした。
何と言えば良いのかわかりませんが、ただ、そうして歩んできた道程にキリストがいた、という感じ。
そのままスルーして通り過ぎて行こうとした時に、ふと横を見たら、そこにいたその人と目が合ってしまった
という感じ? 私の場合ですが。
別に特別なことではないと思います。
同じ位の数だけ、その存在を気にも留めず、また、一切気付くことなく死んでゆく人もいると思いますし。
どちらかと言うと、私のように歩きながら余所見しまくってるタイプの方が気付く確率は高いのかもしれません。
そんなことを考えていると、ふと思い出すものがあって、それは、この【炊き出しの列に並ぶイエス】という絵です。
版画なのですが、アメリカのフリッツ・アイヘンバーグという画家がニューヨークで炊き出しの様子を眺めていた時に、ふと疑問に思ったことがきっかけで生まれた版画です。
その疑問とは、「神は施しをする側と、受ける側、どちらにいるんだろう?」というもの。
面白いのは、「神様」なんて言ったら特別で力ある存在のようなイメージが普通だと思うのですが、この画家は敢えてキリストが炊き出しの列に並んでいる(施しを受ける側)絵を描いたのです。
これが何を意味しているかと言うと、この絵を著書で紹介している本田哲郎神父の言葉を借りると、
小さくされた者の側に立つ神
「サービスする側にではなく、サービスを受けねばならない側に、主はおられる。」
小さくされている側に神の力は働いている
ということ。
日本人の一般的な感覚から言ったら、絶対に矛盾してると思うんですよね、この解釈。
全知全能とか言うくらいなんだし、神が物乞いするなんて、ちゃんちゃらおかしい話だと。
これが、キリスト教とそれ以外の宗教の決定的違いの1つだと思います。
しかし、これを認めて初めて、神という存在がどんなものなのかわかるような気もします。
私たちが信じているのは、ある面から見ると、赤ん坊のように弱く小さな存在である神で、施しをする側ではなく、むしろ施されることを必要としている神です。
そこに、神が発する強烈な渇望、人間の愛への渇望を感じます。
ちなみに遠藤周作は、「侍」という本の中で、「イエスとはまるで後ろから後をつけてくるあわれな野良犬のようだ」と書いていました。
(支倉使節団をモデルにした話ですが、これもすごい面白いです。今度レビュー書こう。)あわれな野良犬のように、物欲しそうな目をして、人間の保護を求めている、と。
私、この言葉の意味がすごくわかるようで、でもそれだけでは良くない誤解も生まれそうだという気もしています。
先にも言ったように、ある面から見ると、神はそういう存在に違いないんです。
しかし同時に、紛れもない絶対者でもあるのです。という矛盾。
これは、理解するのはなかなか難しいですし、私自身まだまだよくわかっていないところが沢山あると思います。
そう思うと、キリスト教文学ってずいぶんな挑戦だよなと思います。
遠藤周作も、できればこんな重荷を背負いたくはなかったんじゃないかしら。
唐突に終了。