【沈黙―サイレンス―】象徴

最近は暇な日々なので、よなよな書いた記事をどんどんUPしていきます。順不同。


沈黙 -サイレンス-(字幕版)

沈黙 -サイレンス-(字幕版)

  • 発売日: 2017/07/12
  • メディア: Prime Video


2017年、遠藤周作の「沈黙」がマーティンスコセッシ監督によって映画化されました。

私は、遠藤周作の本の中だったら「沈黙」が一番衝撃的だった作品なので、非常に期待して一人で映画館に見に行きました。

その前の年のクリスマスに、長崎へ一人旅をして「沈黙」の舞台となった外海にも行ってきました。

映画が先行上映されたという26聖人記念聖堂にも行ってきたんだけど、案内のおばさんが「ああいう題材だからしょうがないけど、処刑シーンは結構怖かったわよ」と言っていました。

おばさんの言うとおり、水磔のシーンも、急に打ち首にされるシーンも、怖かった。

しかし、小説の描写には及ばないとも思いました。

あの作品のすごいところのひとつは、本来聴覚によって認識する「沈黙」を文章によって描き切ったところだと思っています。

信者への残酷な拷問や処刑が執行される側らで、まるで何事も起こらなかったかのように規則正しく海の波が寄せては返す様子や、午後の穏やかな日照りの風景などを描き、それによって「神の無干渉」を感じ取る主人公の戸惑いを描きました。

その表現が、恐ろしくも、美しいのです。


映画には、その点「沈黙」の描写が欠けてしまい、ただ処刑の残酷さだけが際立ってしまったような気がして個人的に少し残念だったのです。

でも、小説にはない付け加えられた描写の中でとても良いと思うシーンもありました。

それは、モトギ村の村人であるモキチ(後に水磔になるうちの一人)が、ロドリゴが懐から取り出した小さな十字架に気付き、食い入る様にそれを見つめるシーンです。

あれは堪らなかったですねー。

十字架を見る熱烈な視線、でも容易には手を伸ばせないあの様子が。


何故こんなにもあのシーンが心に残ったのだろうかと映画を見た後もしばらく考えていたのですが、ふと、長い間迫害され、潜伏を余儀なくされてきた彼等はきっと、何か目に見える象徴(シンボル)を求めていたんじゃないかと思い当たりました。

これだと見てすぐにわかるもの、それを証明するもの、キリストのシンボルと言えば、十字架以外あり得ません。


私が長崎のキリシタン遺跡を見てまわった時にも、隠れキリシタンたちが何とかして聖物(十字架やロザリオ等)を手元に残そうとしていたのがハッキリと手に見て取れるような遺産が多くありました。

彼等は、仏像に似た像の中に聖母像を隠したり(もしくは仏像を聖母像に見立てていたり)、麻紐で自らロザリオを作ったりしていましたが、これらは持っていることがバレただけで投獄されたり処刑されたりする恐れがある代物でした。

また、墓石の上に置いてある小さな白い石を十字架に並べて祈ったり(これは、祈り終わったら十字架を摸していたことを悟られないように形を崩しておきます)、キリシタンを奉る神社を作ったり、一見日本家屋にしか見えない教会を建造したりしていました。


そういうものを淡々と眺めて歩くと、「こうまでして・・」とばかり繰り返し思うのです。

映画を見て、「こうまでして・・」の続きは、きっと「こうまでして、彼等は象徴(シンボル)を求めていたのか」だったのだと気付きました。

その強烈な渇望を思うと、胸が苦しくなります。


指導者(司祭)がいない、御聖体もない、祈りは禁じられている、聖物も持つことができない。

忘れ去られていくものを何とか守るべく、村ごとに独自の形態をつくって代々信仰を絶やさぬように努め、時には生き延びるために踏み絵を踏み、「私は仏教徒です」とうそぶく。

遠藤周作もエッセイの中で何度も何度も繰り返し書いていますが、そういうことをして生き延びてきた彼等の心が痛まないはずがないのです。

しかしながら、その都度その都度、裏切りの苦しみを味わった彼等のことを誰も顧みる者がいない。

遠藤氏が注目したのはその点でした。

弱者ーー殉教者になれなかった者。おのが肉体の弱さから拷問や死の恐怖に屈服して棄教した者についてはこれら切支丹の文献はほとんど語っていない。もちろん無数の無名の転び信徒について語れるはずはないのだが、その代表的な棄教者についてさえ、黙殺的な態度がとられているのである。
 〜中略〜
 こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼らがそれまで自分の理想としていたものを、この世で最も善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。彼らが転んだ後も、ひたすら歪んだ指を合わせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。私は彼らを沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。彼らを再びその灰の中からも生き返らせ、歩かせ、その声をきくことはーーそれは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだという気がしたのである。
(切支丹の里より)

切支丹の里 (中公文庫)

切支丹の里 (中公文庫)

過去にも引用したことがあるのですけど、やっぱりこの文章が好きだなあ。



と、ずいぶん話が逸れましたが、映画「沈黙―サイレンス―」のあのシーンを見ると、彼等の切実な思いがひしひしと画面越しに伝わってくるようで、ただあのワンカットだけで涙が出てくるのでした。

作中の司祭ロドリゴは、日本の隠れキリシタン達があまりに「物」に執着しすぎると、それでは信仰の本質を損ねる恐れがあると危惧していますが、司祭の言うことも最もなんだけど、彼等が執着しているのは先にも言ったとおり「物」ではなく「シンボル」だと思うのです。

何て言うのかなあ、上手く言えないんですけど。

何も無い状態で、裸のまま乱暴に放り棄てられて、飢え・渇きに苦しみ抜いて、すぐに普通の生活に戻れますか? と私は思うんです。

まず、何か足がかりが必要ですよね。

立ち返るためのわかりやすい何かが。

そこに集えば間違いない、これこそが紛れもない「証拠」だと自信を持って言えるもの。

その役割を果たすシンボルの力は絶大です。

そのための十字架であり、そのための聖物だったと思うのです(彼等にとっては)。

十字架のない基督教はあり得ない、基督のいない十字架には意味が無い、とまで言われていますので。



あと、賛否両論あるラストシーンについて。

棄教したロドリゴが日本で日本人として死に、火葬される時に、日本で妻として連れ添った女性がこっそり藁で作った小さな十字架を棺桶に入れてあげるんですね。

ここは、完全に映画オリジナルです。

遠藤氏はもうとっくに亡くなっているので何と言うかわかりませんけど、このラストに関して決して否定的なことは言わないだろうなあと思うのです。

と言うのも、原作のエピローグに「切支丹屋敷役人日記」というものが収録されており、現代訳されていないので皆ちゃんと読まないのですが(私も当時は読み飛ばした)、ここには、ロドリゴは御奉行様から下される任務を忠実に熟す側ら、ロドリゴと側近のキチジローは幾度となくロザリオやらの聖物を隠し持っていたことを検挙され、その都度しらばっくれていた・・・ロドリゴの側には、いつもキチジローがいたというような描写があるんです。

おそらく、二人とも、本当には棄教していなかったものと思われます。

私は、特にロドリゴはもし本当に信仰を捨てていたら、とっくに自殺していると思うんです。

何故なら元司祭が、日本人として日本で妻を娶り「転び神父」と罵られて基督教を否定する書物を執筆させられながら死ぬまで軟禁生活を送る、これ以上の侮辱も、苦しみもないでしょうから。

それでも生きた、最後まで生きた、というのが、胸にじわりと来るんです。


そして、ロドリゴが踏み留まれたのはキチジローがいたからじゃないかとも思うんです。

棄教した後も、キチジローだけが相変わらずロドリゴの側にいて、繰り返し「コンヒサン(告解)を聞いてください」と、もはや司祭としての権限を失ったロドリゴに懇願し続けるのです。

彼だけがロドリゴを最後まで司祭として扱ったから、ロドリゴはまだ自分が神と繋がっているということを、微かでも実感できたと思うのです。

どれだけ祈りの力が絶大でも、心に秘めているだけでは辛い時が絶対にあるはずです。

司祭だって人間ですから。

だからこそ転び神父のロドリゴには、誰よりみっともなく転んで泣いて何度でも戻ってくるキチジローが現実に同胞として必要だったのだと思います。


ともあれ、ロドリゴの心の中には、キリストの居場所がちゃんと最後まであったのだということを、あの小さな藁の十字架ひとつで表現している、その手法が、映画ならではなのかなと思いました。

映像で見ても、すごく良い、心に残る作品でした。