先週、2016年に相模原の障害者施設で起きた殺傷事件の犯人である植松被告の死刑判決が下されたことがニュースになっていました。
コロナ騒ぎに紛れてあまり大きな話題にはならなかったようですが、ネットニュースにはいくつか記事も上がっています。
これを見て、私もあらためて色々考えさせられました。
大前提として、私は植松被告が犯した罪を庇うつもりは全くありません。
できれば、あらかじめ論点は別の場所にあるということを踏まえた上で、読んでくださる方は読んでいただければと思います。
「死んで償え」が当たり前の世の中
まず、死刑制度撤廃については日本弁護士連合会がとてもわかりやすい資料をまとめていたので、参考まで。
【死刑制度 いる?いらない?】https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/shikeiseido_yesno.pdf
日本弁護士連合会が根拠としているのは、以下の国連決議の内容です。
【国際連合等の決議等】http://www.moj.go.jp/content/000094933.pdf
すでに上記2つに書いてあることを再びまとめる意味はあまり無いかなと思ったので、自分が考えたことだけ書きます。
私は、「植松被告の死刑判決は真っ当だったか?」と問われれば、正直首を傾げずにいられないです。
感情的にはYESともNOとも言い難いのですが、理性的にはNOと答えます。
私が疑問に思うのは、植松被告をはじめ、凶悪な犯罪を犯した人間には「死んで償え」と、さも当然かのように堂々と叫ぶ一般人があまりに多いことです。
遺族の方々がそう感じること、そう望むことは止められないですし、自然な感情だと思うから何も言えません。
しかし、直接的には無関係な人々まで死んで然るべきと激しく主張するのは何故なんでしょうか。
私は、この点において、日本人(だけじゃないとは思いますが)は命に対する意識がものすごく低いような気がします。
子供から「なぜ人を殺してはいけないの?」と訊かれたとして、一体どれだけの大人がきちんと答えることができるんでしょうか。
「ダメなもんなはダメ!」と言っても納得出来ない子供はいるはずです。
なぜ人を殺してはいけないんでしょうか。
人を殺してはいけないけど、死刑は良いというのなら、その違いは何なのでしょうか。
もし、植松被告の側にそのことを的確に教えられる大人がいたら、結果は変わっていたかもしれません。
彼は私のたった1つ年上なだけなので、一体どんな教育を受けてきたんだろう?と疑問に思わざるを得ません。
もちろん、大罪を犯した植松被告を許すと言っているのではありません。彼は何らかのかたちで罪を償うべきです。
しかし、国連でも決議されているように、「死刑よりも人道的なアプローチがあるはずである」という可能性を切り捨てて、他者の命に死を宣告することは、一人間としてあまりにおこがましいと思いますし、何より人間が人間の生死を決めることを是認するのは危険なことです。
そこに、罪の大きさは関係ありません。
そう考えるからこそ、国連も死刑制度撤廃の採択をしたのだと思います。
生命の尊厳=人間の尊厳=個人の尊厳
今回のことを受けて、改めて、このような教育がなされないことは、私たちにとって大きな損失だと感じました。
以下のネットニュースを見ていても、「死刑で当然」という意見が本当に多い。
私は和光大学の最首悟・名誉教授が言っていることは正しいと思います。
感情は許せない、でも、行動は理性によって為されるべきだと思います。
自身も障害のある娘さんを持つ最首さんは、植松被告のような短絡的な優生思想主義者など、考えるだけで吐き気がする存在だったと思います。
それでも理性的に彼に接し、彼を理解しようとし、反省を促しつづけました。
遺族の方々にそれは難しいことです。大事な家族が惨殺されたんだから当たり前です。
元記事に「このタイミングで遺族でもないのに、死刑に反対だと言ってしまうのか理解できない」というコメントをする人が沢山いたけれど、だからこそ、正しいことは部外者が言わなきゃならないと思うんです。
そうでなければ、死を決定づけることに対する責任がどんどん軽いものになっていってしまうからです。
当事者じゃなければ発言権はないなどという意見はナンセンスですし、そもそも特大ブーメランです。
生も死も、だれにも決められない、尊厳は奪えない
これについては、私がクリスチャンだからそう思う、というわけでもない気がします。
ただ、クリスチャンだから、自分の命は親(肉体)と神(魂)によって造られたもの、いただいたもの、という意識は普通の人よりは強いと思います。
カトリックでは、人の命を活用するのは本人だけれど、命そのものは預かりものであって、いずれは神にお返しするもの、という考えがあります。
だから、勝手に人の生き死にを決めることは許されない=殺人・自殺はタブーなのです。
でも、もしも私がクリスチャンではなかったとしても、私はやはり生命の尊厳は守られるべきだと思うので、死刑制度には反対するでしょう。
生命の尊厳を認められないということは、人間だと認められないということと同義です。
最首教授も言っていますが、それでは障害者の尊厳を無視した植松被告の主張と本質的には同じ事になってしまいます。
あえて強く言い切ります。
それではダメなんです。絶対に。
私は自分の尊厳が大事です。人間として、女性として、個人として、全てにおいてです。
尊厳が損なわれれば、食料と水があっても生きていけません。
このことは、V・フランクルの「夜と霧」を読んでも明らかです。
こういう答え合わせが到底出来ないことについて議論するのは、絶対に無駄じゃないと思います。
しかしそのような議論の機会を、ことごとく持てずに生きてきてしまったからこそ、現状多くの日本人が平然と「死んで償え」と叫ぶのだろうと思います。
似たような主張は、下記の過去記事でも書きましたが、結論として私の意見は変わりませんでした。