気負わず焦らず

こんな状況ではありますが、今、結婚式の式次第を作成しております。

カトリック教会の結婚式では、式次第を自分達で作ります。

2通りのテンプレートがあり、新郎新婦が両者とも信者である場合は途中でミサを含む式次第と、もう1つはいずれか一方だけが信者であったり、ゲストの大半が信者ではない場合の式次第。

後者の式を「ことばの祭儀による結婚式」と言い、私たちはそちらを選ぶことになります。


結婚講座は未だに延期中で再開の目処が立ちません。

そろそろ事務局に電話して、こんな状況です~くらいの報告した方がいいだろうと思っています(今週末にでも)。

司式をしてくださる神父様が超高齢者なので、ご本人は「いつでもいらっしゃい」と言ってくれているけど、さすがにまだ怖くて行けませんです・・・(^^;)

教会にも行けないので、式次第含め今後のスケジュールについて神父様に直接相談することも出来ず(超高齢者のため、メールは簡単なもののみ可、電話は耳が遠くなっているので厳しい)、行けたとしても先のことはわからないのでどうしたもんやらです。

そもそもが、コロナのピークはまだ先だろうし、6月中旬でも予定通りできるかどうか怪しいなと思っています。

ゲストが全員都内から来る、親族友人知人合わせても20数名、2時間未満の挙式のみで解散、通気性◎、飲食無し、という環境なので通常の結婚式に比べたらだいぶ危険は少ないだろうと考えてはいますが、先週末のような強力な外出自粛要請が出ていたら無理でしょうね。


まあ、あまり心配しすぎず、なるようになる精神で乗り切りたいですが、ふとした瞬間に「別に私がどうしても結婚式やりたい!ってわけじゃないのに余計な悩み事抱えるのほんとダルいわあ」と思う。

もともと、本当に心から人前に出るのが苦手な性分なので、着飾って自分が主役みたいなシチュエーションに精神的に耐えられるかどうかわかりません。


それでも自分の中で結婚式を遂行する正当な理由を見付けるべく、というか、これぞ正当な理由だというものはもう見付けており、だからこそカトリック教会での挙式にしました。

普段教会に一切縁がない自分と夫の家族を教会に招く絶好の機会ですし、私の数名の信者仲間もカトリックの結婚式を見たことがない人がほとんどで、彼・彼女等の中には「自分のパートナーにも教会の結婚式を見せてあげたいから一緒に行かせて欲しい」と言ってきた人が何人かいます。

そういう人たちをひっくるめて、今、自分ができる最も自然であり最大限の宣教は結婚式だろうと思いました。

それが2番目の理由。

1番目の理由は、夫に「神の御前で誓う結婚は形式的な儀式に留まらない」ということを、将来も含め長い目で見ていつか知って欲しいと思ったからです。

2番目の理由は、コロナの影響でもしかしたら叶わずに終わるかもしれないけれど、1番目の理由は形を変えてもできることなので、柔軟に対応できるよう心づもりしようとは思っています。


さて、式次第の話に戻ります。

サンプルがまだ入手できていないので右も左もわからず状態だったのですが、ネットで調べてみたら過去に同じ教会で挙式をされた方がいらっしゃって、その方にダメ元で「色々教えてください」とブログを通してお願いしたところ快く挙式に関する情報を提供してくださり本当に感謝感激雨霰。

その情報を元に大筋を作成してみましたが、もともと工作系は好きなので結構楽しいです。

できあがったら写真をUPしたいです。


内容については、聖歌と聖書の朗読箇所を自分達で選ぶことが出来ます。

それぞれ2つずつになると思いますが、聖歌に関してはまっっっったく無知(涙)なので、定番の「いつくしみ深き」と「あめのきさき」になるかと。

「いつくしみ深き」は、私も友人の結婚式でチャペルで歌ったことがあります。

私の悪い癖だなあと思うけど、神様を信じていなくても「いつくしみ深き ともなるイエスは 罪咎憂いを とりさりたもう」という歌詞の歌を自分の結婚式に取り入れるのが現代の日本人にとって普通なんだなあと、一瞬訝しく思ってしまう。

夫も完璧に歌えるので、純粋な疑問も含めて「こういうの歌わされるの嫌だったりしないの?」と訊いたら、「そういうもんだと思ってるから」と言っていました。

多くの人が取り入れてることだったら、自分にとって意味がわからないことでも不思議に思わないということかな。

私は自分が意味がわからないことはしたくないけど。


まあでも、きっと何事も私が構えすぎているのでしょう。

自分はこういうことに関して色々と嫌な思い、惨めな思いをしてきたと思ってずっと根に持っているからなんだろうな。

この変な被害者意識と負のスパイラルからいつか抜け出すことはできるんだろうか。抜け出したい。


気負わず、焦らず。

「やるべきこと」にカテゴライズしているのでやるけど、本心ではやりたくないから、こうして度々言い聞かせないとどこかで切れそうです。

結局夫は激務で一任した仕事まだ何もやってないし。何なら私が代わりにやってるし。

贅沢な悩みだと言われるかもしれませんが、人前に立つのが本当に苦痛な人種もいるのです。

聖書朗読は、新郎新婦がそれぞれしても良い、とのことでしたが、私はぜっっっっっっっったいに読みません(笑)

声が震えるか、最悪吐きます。(でもたぶん誓いの言葉は言わされそうな気がする。「ハイ」「誓います」程度だったらいいな)

ああ・・・気負わず、焦らず。


というわけで、そんなに皆変な風に思わないのならあまり気にせずとも良いのかもしれないとやっと思えてきた(本当は、恩師にも「カトリックなら変な風に思う人なんていないよ」と言われています。それでも私は怖いのです。半分病気ですかね)。

聖書の朗読箇所を選ぶのは結構楽しくて、改めてよく式に使われる箇所を読むと、いろいろ発見もあり、心に響くものもあります。

私がこれは入れたいなあと思っているのは、聖パウロの「愛の讃歌」と呼ばれるところ。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、 愛がなければ、わたしには何の益もない。
愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。 (コリントの信徒への手紙1 12章31b節~13章8a節)

この内容ならば、信仰あるなし関わりなくいろんな立場の人の心に響くんじゃないかなと思いました。

それに、最後に「愛は決して滅びない」と力強く言い切っているところが、潔くて好きだなあと思います。

愛と言うと、こっぱずかしいもの、綺麗事、と普段なら思われるかもしれないけれど、結婚式の場ならば、愛という言葉を使っても許されるのではないかという気がしています。

美しい言葉は、時を超えて文化を超えてなお、美しいのです。