【侍】ここからはあのお方がお供なされます

侍 (新潮文庫)

侍 (新潮文庫)

遠藤周作著、“侍”。

初めて読んだ時の衝撃度で言うと、“沈黙”の右に出る小説はなかったのですが、ストーリーの好みで言うと、遠藤氏の作品の中では“海と毒薬”とは僅差でこの“侍”がすごく好きです。

あらすじは以下の通り。

藩主の命によりローマ法王への親書を携えて、「侍」は海を渡った。野心的な宣教師ベラスコを案内人に、メキシコ、スペインと苦難の旅は続き、ローマでは、お役目達成のために受洗を迫られる。七年に及ぶ旅の果て、キリシタン禁制、鎖国となった故国へもどった「侍」を待っていたものは――。 政治の渦に巻きこまれ、歴史の闇に消えていった男の“生"を通して、人生と信仰の意味を問う。

例にもれず硬い内容なのかしら? と思いがちなテーマなのですが、読んでみるとスラスラ頭に入ってきますし、一種の冒険物語としても楽しめるので心からオススメ。


侍のモデルは、1613年に伊達政宗がスペインへ派遣した慶長遣欧使節の主要人物である仙台藩士の支倉常長、すなわち支倉使節団です。

私は、教科書でちょっとなぞる程度の情報でしか支倉使節団のことは知りませんでしたが、この小説の内容自体はフィクションだとしても当事者達にはきっとこれに近い何らかのドラマがあったのではないか? と思えるような作品です。

“沈黙”とはまた違った「遣る瀬なさ」を感じる一方で、一信者である私のような人間が読めば、一抹の希望を感じる結末だったのではないか、とも思います。



感想については、過去に別サイトで書き綴っていた雑多なメモ的なものを掲載します。

何故ならこれを書いたのが小説を読み終わってすぐの時のことで、一番ホットな読後感を綴っているものだと思いますので(今書いても、若干内容忘れてるし)。

支離滅裂な部分は多少、加筆修正してお届けします。

いざ!


遠藤周作「侍」2017年読了

◎切支丹禁制が徐々に日本全国に広まりつつある中で、メキシコとの貿易航路を得る代わりに、宣教師を受け入れるという内容の親書を運ぶ使者団としての使命を与えられた侍が、メキシコ、スペイン、果てはイタリアローマを旅をするというあらすじ。現代とは違って、一つの海を越えるのに何ヶ月もかかり、嵐に遭えば死人も出る過酷な旅。想像を絶する、としか言えない…。

◎不幸なのは、長い旅の間に日本では家康が天下を取り、本格的な禁教令が出され、メキシコとの貿易どころか鎖国に踏み切ってしまったということ。侍たちは、迷いの末に「使命を果たすための利となるのなら」と考え、切支丹になるための洗礼を受ける。彼等が受洗することはあらすじを読んで予め知っていたんだけど、ここに踏み切るまでの迷いや恐れ、苦しみ、哀しみの書き方がまさに日本人。日本人の文化、いっそ命よりも大切にしてきたもの、家柄や御国というものの重さ、外国人にはもしかすると永遠にわからないこと、そういうことを繊細に慎重に書き連ねている。だからこそ、相応の時間がかかるのだ。物語の後半を悠に超え、終盤に入った頃にようやく「お役目のため」と皆で決心して、洗礼を受けた。決して「キリストを受け入れたわけではない」と心では思いながら。

◎彼らの迷いを見ていると、私自身もどうしようもなく「日本人」なんだと思った。両親、祖父母、先祖が守ってきたものを捨てられないという苦しみ、裏切りのような感覚。代々守られてきたものが正しいか、間違いか、ということはこの際重要な問題じゃない。作品中でも外国人の視点から語られていた通り、日本人は一族の繋がりが非常に強く、個の自由が認められ辛いというのは、今もまだ残っている根深いナショナリティなのだと思う。私のような何の家督もない、ごくごく普通の(いっそ下の中くらいの)家庭に産まれてもそんな感覚があるんだから。こういう苦しみは、現代でも、他の人の中にもやっぱりあるんだろうか。という素朴な疑問。

◎私はてっきり侍たちもまた沈黙の農民たちのように、そのうち素朴で純粋な信仰に目覚めるのだろうな、などと甘い考えを抱いていた(もしそうだったら文学として面白いとは思わなかったかも)。でも侍たちは、さすがに侍だった。従うべき主君と、守るべき家、日本人としての捨てられない誇りを持っていた。それは素晴らしいことだと思う。だからこそ、それらを信じて長い旅に堪えてきた彼らが主君から裏切られた時、世情の移ろいやすさを知った時、どれほど深く傷ついたろう。諸行無常とはこのことだなあ。

◎侍のような立場の人ではなくても、それなりに長く生きればそこまで支えとしてきた個々の信念が有って、それを根底から覆すような、もしくは全く触れたことのない異色の思想がその人の中に入り込む余地はきっとどんどん無くなっていくものだと思う。だから「すんなりとキリストが受け入れられるはずだ」という考えは「違う」んだと改めて思った。そして、その人が積み重ねてきたものは、その人が一生懸命ここまで生き抜いた証なのだから、どんなものであっても尊重されて然るべきだと思った。一部の信者の悪しき習慣だが、別の宗教を信じる者や信仰のない者を一段下の者のように考える人たちがいる(それこそ当時のヨーロッパのキリスト教関係者達はこの傾向が顕著だったようだ)。こういう驕りは、油断するとすぐに鎌首をもたげてすぐ傍に立っているものだ。宣教師のベラスコも似たようなものだっただろう。私も自分自身によくよく言い聞かさなければならないと思う。

使節団に同行した宣教師ベラスコは、初めのうちは実直なだけの日本人を馬鹿にしてさえいたのだけど、使節団の目的、ひいては自分の野望を果たせないと分かった時に、ようやく日本人たちと心が通い始めるというのも、この物語の展開のおもしろいところだと思う。吊り橋効果っていったらロマンが無さ過ぎるけど、希望が潰えたと悟った時、初めて自分たち全員が窮地に立たされたことに気づいて、心から手を取り合えるということは往々にしてあり得る。情熱の強さが、時に傲慢となって表現されてしまうことがある。彼はその典型のように思えた。情熱があることは素晴らしいけど、それによって他者を貶め、傷つけていることに気づかないのは、やっぱり罪なんじゃないかと思う。

◎貿易権を得るための(同時に宣教師の新たな派遣を約束するための)スペインにおける討論で、一瞬ベラスコが優勢になったかと思いきや、その場面で日本の現在の情勢(鎖国した)を伝える手紙が届くのも、物語だからだけど「なんてタイミングだ!」と思った。彼らが使命を全うする希望はこの時点で潰えたが、そう簡単に諦めて帰国するわけにはいかないので、彼等はその足でローマのパパ様に直訴しに行く。その足掻きは、哀しいけれど、どこか美しくさえあった。傲慢でプライドが高かったベラスコがパパ様の前に枢機卿に会うシーンで、今までのような狡猾な打算とは違う意味で、あえて旅路で汚れたボロボロの服を着て面会に臨むところもすごく良かった。それは、ボロ服を着ることで「旅路の過酷さ訴える」という見え透いたアピールなのだけど、そうすることをもう恥とも思わない、一縷でも望みがあるのなら日本人たちのためにも最後まで足掻かなければならない、という決意なのだ。

◎そして思わずほろりと来たのは、常に冷静で、感情を表に出すのを律することに重きを置いてきた侍たちが、民衆の前に現れたパパ様の道を阻んでまで涙ながらに直訴を求めたシーンだ。日本人にとっては大名行列を遮るのがどれほど重い罪かと思うと、彼らの覚悟の強さが手に見て取れる。そこまでしたのに、具体的なことは何一つ言えず、「どうか直訴を」としか絞り出せなかった彼らの気持ち。人様の前でみっともなく泣いて頭を下げて、自分の求めに応じてくれるよう他者に頼むというのは、多くの日本人にとってはやっぱり恥に感じるのではないかと思う。昨今の外国人の立ち振る舞いを見ていても、彼らはもっと自由で、自分の要求を他者に訴えることに躊躇いを持たないように思える(もちろんそれは大切なことだ)。それが容易にできない日本人が、ここまでした、ということ。それがどんなに特別なことであったか、ということ。言葉が通じないからパパ様は彼らに応えることができなかった。日本人たちも、民衆に取り押さえられて為す術はなくなってしまった。

◎何もかも徒労に終わって日本に帰る道すがら、使者団のうちの一人が自決する。君主の使命を果たすことができず、一族の期待に応えることもできなかったということを理由に、腹を切ったのだ。外国人勢はこれに対して、「馬鹿なことをした」と言う。日本人としては、どうだろう。死を美徳とするつもりはないけれど、切実に君主を思い、常に忠実であろうとし、使者として遣わされたことを誇りに思い、その報酬として土地を返上してもらえるかもしれないという一族郎党の切望がかかっていた時、それら全てが叶わぬ夢とわかったからと言って、何の手土産も無くおめおめ帰国できるだろうか。死を持って償う、けじめをつける、という文化。特異なはずなのに、自分の中で違和感が生まれないのはやはり私が日本人だからだろうか。哀しい最期。ベラスコは、自殺者を避ける同僚たちを尻目に、自決した使者が天国に受け入れられるように祈る。誰よりも熱心に祈る。彼らの苦しみは、主よ、あなたが誰よりもよくご存知のはずです。

◎日本に帰った侍と残りの使者もまた本当に可哀想で、7年間の旅の中、使命を果たすことだけを考えて切支丹に帰依したのに、それを理由に粗末な扱いを受けるばかり。「家督を取り上げられないだけ有り難く思え」と言われる始末。かつて快くしてくれた重役は任務から離れ、代わりに反対派が上に立ったおかげで踏んだり蹴ったり。禁教はますます厳しくなり、侍たちは謹慎生活を余儀なくされ、最後には切支丹に帰依したことを理由に処刑されてしまう。彼らの悔しさはどれほどだったろう。最も若い使者衆の一人が、重役から「お前たちの旅は大変な苦労だっただろうが、もう必要のないことになった」と言い捨てられた時、同じ使者衆や付き人たちの死、色々な出来事が心によみがえって、思わず「私は切支丹に帰依いたした、すべて使命のためでありました」と、決して言ってはならないことを叫んでしまう。その気持ちが痛いほど分かる。どんなに苦しく、悔しかったか、と思う。

◎最後の最後まで、主人公である侍は疑問を抱き続ける。この醜く惨めな十字架上の男(キリスト)を西洋の国々がこぞって崇める意味がわからない。美しい仏像には自然と頭が下がる思いがするが、俺にはこの醜い男を崇拝する気持ちにはどうしてもなれない。ところが、見知らぬ国外での人々との出会いを経て、信じていた君主に裏切られ、諸行無常を知った侍がふと悟る。「人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを 求める願いがあるのだな」そして、その相手がキリストなのだと。処刑のため、連れていかれる侍に対して、従者であった与蔵(旅を共にし、切支丹になった)が言った言葉が最も心に残っている。

“「ここからは・・・あの方がお供なされます。」突然、背後で与蔵の引きしぼるような声が聞えた。「ここからは・・・あの方が、お仕えなされます」侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた。”

◎彼の信仰の始まりが人生の最期であったことに改めて驚きと感動を覚える。あの方とは、十字架にかけられた惨めな犬のようにボロボロなイエスのことだ。侍が何も言わず、ただ「大きくうなずいた」という描写に、何より強い説得力を感じる。信仰とは、こういうものじゃなかろうか。何もかも不確かで、不安で、初めはおずおずと手を伸ばすものじゃないだろうか。「信仰とは99%の疑いと1%の希望」と言ったキリスト教作家がいる。ずっと安定した道を行く人はいない。不安を抱きながら、何度も余所見し、足を縺れさせながら、子が親に縋るような気持ちで、決して目には見えないものを「はい、信じます」と言って歩いて行く。そうして最後に、共にいてくださった方の存在をはっきりと知らしめられるんだろう。


思うこと・追記

この醜く惨めな十字架上の男(キリスト)を西洋の国々がこぞって崇める意味がわからない。美しい仏像には自然と頭が下がる思いがするが、俺にはこの醜い男を崇拝する気持ちにはどうしてもなれない。

この文章を読んで、なるほど、そうだよな、と思いました。

私が初めて十字架上のキリストを意識したのって、おそらく2004年公開の「パッション」という映画を知った時だったと思います。

パッション [DVD]

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  • 発売日: 2004/12/23
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キリストが処刑されるまでの12時間を描いた映画なのですが(所謂“十字架の道行き”というやつです)、クリスチャンにとってはちょうどイースターを待つこの時期・四旬節にはこのキリストの苦難を思い起こして祈ることが薦められます。

だから、今となっては自分にとって不自然なものではないのですが、当時14歳の私は「なんでこんな映画があるのか?」と不思議に思った記憶があります。

怖い物見たさで友達から「一緒に映画館に見に行こう」と誘われたのも断りましたし。

20歳くらいの頃に改めてこの映画を見ることになるのですが、その時にはもう不思議に思う気持ちはなく、ちゃんとキリストの受難に関する映画であるという認識で見ました。

でもきっと、何も知らない状態で見ていたら、私は嫌悪感を抱いただろうと思います。

年齢制限(12歳以上)もかかっていますし、そのくらいリアルで痛々しい描写がありますから。


だから、侍が当初抱いていた感覚が、すごくよくわかる気がするのです。

普通に考えたら、十字架に釘で手足を打ち付けられて、棘の冠を被らされ、ほとんど裸の状態で、全身の皮膚が裂けて体の至る所から血を流している男の像なんて、怖いし気持ち悪いはずです。

でも不思議なことなのですが、こういう感覚が、カードの表裏を返したように変わる時がやってくるんです。

言葉では語り尽くせません。


“ブラザー・サン シスター・ムーン”というアッシジ聖フランシスコの映画の中で、フランシスコが、子供の頃から通っていた教会のキリスト像(煌びやかな王冠を被ったモチーフ)を見て、堪らず走り出し、廃屋となったサンダミアノ教会に行って、そこに掲げてあるキリスト像(裸で、血を流したキリスト)に語りかけるシーンがあります。

「これぞあなたです」と。

初めて見た時は意味がわからなかったけど、今見ると、毎回泣きます。

キリストの受難の苦しみが何のためであったのか、何故あんな苦しみがあったのか、その意味を知った上で「さあどっちだ?」と言われれば、私も十字架上のキリストは美しい姿よりも痛みの中にある見窄らしい姿の方を絶対に選びます。

ブラザー・サン シスター・ムーン (字幕版)

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  • 発売日: 2015/09/24
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同じような話で、私の信仰仲間の女の子が昔教会に行った時に、近くにいた男の子(その子は、近い年齢の女の子がいたのが嬉しくて他愛も無く話しかけてきたようです)が、非常にリアルに造られた十字架上のキリスト像を指して「ちょっと気持ち悪いよね」と言ったのだそうです。

それを聞いた彼女は驚き、ショックを受けたのだとか。

「私にとっては美しいものだったから」と言っていました。


なるほど、最初からそういう感覚を持っている人もいるのです。

私は遅咲きと言いますか、一旦情報を取り入れて、噛み砕いて吟味して、それによって徐々に変化が訪れるタイプの人間なので、彼女のような人がいることに驚きなのですが(笑)

どちらがより良い、ということは無いと思いますが、興味深い話だったのでついで書き留めてみました。


最後にだいぶ話が逸れてしまいましたが、遠藤周作著“侍”、キリスト教に興味あるなし関わらず読んで後悔しない作品だと思うので、心からお薦めしたいと思う所存です。