【身代わりの愛】アウシュビッツの聖者

数年前に一人旅をした長崎に行く前に読んだ本。


宣教のために日本に滞在したことのある聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の生涯がわかりやすく書かれた本なので、事前学習として購入しました。

著者は、長崎にある聖母の騎士修道会(コルベ神父が創設者)の修道士である小崎登明。

小崎修道士は少年時代に長崎に投下された原爆で孤児となり、行く当てを無くして修道会のドアを叩いた方です。

そしてその時に彼を迎え入れてくれたのが、コルベ神父が来日する時に連れてきた同じくポーランド人のゼノ修道士でした。

※この記事で紹介した人ですね-。
abomi344.hatenablog.com

つまり、コルベ神父にとても縁の深い方なのです。


ちなみに小崎修道士は、この本以外にも長崎の切支丹遺跡を巡るのにとても参考になった「長崎オラショの旅」という本等も書いています。

親しみのある文体でとても読みやすいのでおすすめ。

コルベ神父の生きる意義

さて、コルベ神父は日本ではあまり有名ではないと思いますが、ヨーロッパ諸国を始めとする世界ではアウシュビッツの聖者”と呼ばれ、人気がある聖人の一人です。

この方の呼び名の由来ともなった最も有名な逸話は、コルベ神父がアウシュビッツ収容所で餓死刑(その名の通り、餓死するまで食事も水分も与えられないという残酷な処刑)に処されることになった男性の身代わりを申し出たという衝撃的な出来事です。

小崎修道士は、コルベ神父に助けられたフランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹にも直接インタビューをしており、その時の様子も本書に記されているので生きた声を知ることができます。


苛酷な収容生活中でコルベ神父という人は、他の収容者たちを労い、彼らのために祈り、時には少ない配給のパンを分け与えたりもしたそうです。

しかし彼のそうした行動は、同じ境遇にいる一部の収容者たちの目には“愚かな行為”と映ったようでした。


ある日収容者の一人が、「生き延びるために皆が必死になっているこのような場所でそんな風に己を犠牲にするのは愚かなことではないですか?」と尋ねると、

コルベ神父は、「誰もが生き延びることの目的を持っています。多くの男たちにとって、それは家に、妻や家族のもとに帰ることです。しかし私の場合、目的は、自分の命を他の皆のために使うことなのです。」と答えたそうです。

その言葉通り、コルベ神父は聖職者であることで監守たちの激しい嫌悪や迫害に晒されながらも柔和で落ち着いており、常に司祭である自分が働ける場所を探していました。


ガイオニチェクの身代わりとなってからの出来事は、以下よりwikiから丸っと引用させていただきます。

1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。

通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ましていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツ(Bruno Borgowiec)は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、当局はコルベを含む4人はまだ息があったため、病院付の元犯罪者であるボスを呼び寄せてフェノールを注射して殺害した。

ボルゴヴィツはこのときのことを以下のように証言している。

マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵とボフが出て行くと、もう一度地下に降りました。マキシミリアノ神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。

亡骸は木の棺桶に入れられ、翌日のカトリック教会では大祝日にあたる聖母被昇天の日である8月15日に火葬場で焼かれた。なお、コルベ神父は生前、聖母の祝日に死にたいと語っていたといわれている。



“マリア教”と揶揄されたコルベ神父の信仰

コルベ神父の行動は、あまりに聖人的すぎるでしょうか。

理解の範疇を超えているでしょうか。


私の恩師の教え子の一人の若い女の子は、コルベ神父の概要について知った後、腹立たしげにも見えるような様子で「私にはこの人のしたことには意味がないと思う」「まったくわからない」と言ったそうです。

恩師が「なんでそう思うの?」と訊ねると、「だって、神様がいたら戦争とか、残酷なことは起こらないはずだから」と答えたのだとか。


ちなみに私はカトリック信者ですが、神に関する何かに触れても、何の感想も抱かない、思慮に及ばないよりもずっと、彼女のように何らかの思いを抱く人の方にすごく共感するし、そういう人といろんな話がしたいなと思う。

何故なら、批判や否定をするということは、その人自身の胸の中にそれなりの理由があるはずだからです。

肯定や共感ばかりを求めているわけではないのです。


脱線しました。


行動だけを見ると人間離れして聖人的に思えるコルベ神父ですが、その人柄は決してとっつきやすいものではなく、明るく社交的なわけでもなかったようです。

また子供の頃から信仰に厚かったかと言われるとそうでもないらしく、両親をひどく心配させるくらいやんちゃな子だったと言います。

軍人になって国のために命を捧げるか(当時のご時世柄ですが)、司祭になって神に命を捧げるか、いずれかの道を考えていたようですが、子供の頃のコルベ神父の身に下記のような出来事が起きたことで、彼は司祭になる道を選択します。


コルベ少年が経験した出来事とは、聖母マリアの出現です。

母親に「お前は困った子だ」と言われてショックを受けたコルベ神父が教会で祈っていると、少年の前に現れた聖母マリアが、彼に「白い冠と赤い冠、どちらが欲しいか」と尋ねたそうです。

白は純潔、赤は殉教を意味しており、コルベ少年は「どちらも欲しい」と答えました。

そうして彼は、後にカトリック司祭となり(生涯結婚せず純潔を貫いた)、アウシュビッツでは他者の身代わりとなって死んだ(殉教)ことで、白い冠と赤い冠をどちらも受け取り、マリア様のご出現の意義を完成させました。

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このシーンを聖画として描く作家は多いようですね~。


ちなみに私としては、コルベ神父様がアウシュビッツ収容所の収容者服(例の番号が書かれた)を着た姿で描かれている宗教画がインパクトあるなあ・・と感じます。

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このステンドグラスは本当に美しい。どこに飾ってあるんだろう・・。



幼少期のこうした経緯もあり、コルベ神父は「マリア信仰」にとても厚い方でした。

聖母マリアのために「聖母の騎士」という広報誌を出版する会社を独自に起ちあげたり、さらには意気込んで遙々日本まで宣教活動しに来られたくらいですし、修道院で同僚とすれ違う時の挨拶も「マリア」だったと言われています。

それを見た一部の人からは異質だと思われ、「マリア教」だと罵られたりもしたそうですが、私はむしろコルベ神父様を通して初めてマリア信仰の真髄に少しだけ触れられたような気がします。

何故ならコルベ神父は自身が遺した言葉の中で、聖母マリアへの信仰はあくまで「マリアを経てキリストへ至ること」を大前提としている、と言い切っているからです。

必ずマリアの先にキリストがおられるからこそのマリア信仰なのです。

私は、洗礼を受けた後もしばらくカトリック教会の聖母マリアへの信仰に不理解でしたが、コルベ神父のこの発言を知って、はじめてそういうことかとストンと腑に落ちた気がしました。

人のつながり

面白いなあと思うのは、来日したコルベ神父が共に連れてきたゼノ修道士が少年時代の小崎修道士を助けたことで、確実に次の世代へバトンが渡されているのだということ。

実は私も無関係ではなくて、私の恩師が若い頃にお世話になった指導司祭は元々長崎出身の方で、第1次世界大戦と第2次世界大戦どちらも経験しているのですが、その方が長崎にいた頃に一時的にコルベ神父様と生活を共にしたことがあったそうなのです。

だから、恩師はその司祭の口から実際のコルベ神父の様子を僅かですが聞き知っています。

ほんの3世代の差なのです。

大げさかもしれないけど、私とコルベ神父にもこうした細い細いつながりがあったこと。

世代も国も、すべてを飛び越えて、私にマリア信仰の神髄を少しだけわからせてくださったこと。

人知れず、これはきっと、特別なことだろうと思うのです。