回顧録④ 五島列島、福江島へ

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(珈琲とかんころもち/カップも素敵)

◎長崎4日目。朝飯を宿に頼んでいたので女将さんの手作りご飯を朝から食す。新鮮なお野菜をふんだんに使っていて嬉しい美味しい。テレビでは首相の真珠湾訪問のニュースばっかり。食後は珈琲と五島のかんころもちをいただいたのだけど、素朴な見た目に反してこの五島産「かんころもち」、めちゃくちゃ美味しいです。写真のようにちょっと焼いて食べるとなおのこと。


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福江港から久賀島へ)
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福江港

◎今日は福江島の北にある久賀島という島に行く。AM9:00発の定期便に乗るため宿主さんに車を出していただき、福江港へ戻る。福江島から長崎に戻るジェットフォイルはPM16:00発を予約していたんだけど、どうやら五島列島の多くの島にはほとんどバスが通っていなくて、基本的に移動手段は車のみ。私は自動車免許を持っていないので時間いっぱい観光したくてもタクシーを使う他ないのだ(二輪免許は持っているけど全然乗ってないから事故りそう)。久賀島の分だけでもタクシー代が馬鹿にならなかったので、福江島観光は次回来た時の楽しみにしよう。というわけで、長崎行きの便の時間をPM13:00発のものに変えてもらうためチケット窓口へ交渉しに行く。あっさりOKだった。空いてるのかな。

◎ちなみに長崎から直接久賀島に行く方法は無い。必ず福江島を経由しなければならないのだ。

◎ホッとして、久賀行きの定期便まで少し時間があったのでお土産を見る。五島発祥の「治安孝行」という茶菓子が美味しそうだったのと、こういうのであれば祖父母も食べるだろうと思ったので年明けに渡す用にと実家分を合わせて購入(後で気づくが賞味期限が年内だった)。それから「かんころもち」はどうしようかなあと思ったけど、LINEで訊いてみたら姉が食べてみたいと言うので買った。


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◎定期便に乗って久賀島へ。今日は天気が良くて本当に良かった! 波がきらきらしてて綺麗。同乗していた小さい少年がAPPAをずっと歌って踊り続けていた。めっちゃ面白かった。島は小さい船で20分程度のところにあるんだけど、外海から逃げてきた人たちが住んでいた場所と聞くと、やはり感慨深い。きっと手漕ぎの船で隠れて海を渡ったに違いない。もしかしたら波は今日のように穏やかではなかったかもしれないし、夜の内に船を出したかもしれない。前途が明るいとは思えない船旅で、文字通り信仰だけが彼らの頼りで、唯一の希望だったんだろうな。

久賀島に到着。着いたところでタクシー運転手さんが待っていてくれたので合流。基本的に久賀の観光は団体客相手にしか行わないそうで、私も当初はそれに参加しようと思っていたのだけど、予約後にツアーを取り仕切っている業者さんから時期が時期なので定員に達せずツアーは取りやめになったとの連絡があった。割高だけど代わりに個人タクシーを手配できると言うので、その通りにした。まあ、年末に旅行として行くには辺鄙なところだから仕方ない。

◎運転手さんは手慣れた様子で見学の順路を決めてくれた。帰りの定期便の時間を伝えると「大丈夫、充分時間ある」とのこと。まずは港から一番遠い旧五輪教会へ。教会守の方が案内をしてくれると聞いて喜ぶ。もともと予約していたツアーにはガイドさんがいるはずだったので五島列島についてはほとんど予習していなかったのだ。

◎車道を道なりに行って、途中から住宅街に入り、更に林の中に入る。街と言っても住宅は点々としていて、何より全く人気がない・・・。天気だけが良い。運転手さんによると、昨日来た人たちは寒くて凍えていたそうだ。他にも、フェリーで具合が悪くなり見学どころではない人も時折いるそうなので、欠航したにせよ、運が良かったんだなと思う。


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(旧五輪教会)

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(中は洋風)

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(父子像)

◎旧五輪教会まで、車で行けるところまで行ったら次は徒歩で現地まで向かう。もっと放って置かれるのかと思っていたけど、運転手さんが教会守のところまで連れて行ってくれるらしい。ありがてえ。教会に着くと、女性の教会守さんが出てきた。教会の外観は日本家屋風。と言うのも、外から見て教会だとバレないようにするためだったそうだ。中は洋風なので不思議な感じ。木造のこじんまりとした教会で、とても綺麗だった。結構珍しいと思うのだが祭壇の上に置いてある御像がイエス様を抱いたヨハネ様(父親)だった。いわゆる父子像というやつだ。当時の人たちは、迫害で子供を亡くした人も多く、教会に来てこの御像の前で泣きながら子供を想って祈ったのだそうだけど、あえて父子像にしたのは何故なんだろう。

◎教会守さんは他にも結構いろんなことを話してくれた。元々久賀島には何百人と信者がいたけど、今では60人くらいしかいないこと。これは禁教令が解かれた後にカトリックに戻るか仏教徒になるか(仏教徒のふりをして暮らしていた人が多かった)をそれぞれが選んだ結果なのだそうだ。隠れ切支丹の島だったのが、今ではクリスチャンの方が稀少な存在になってしまった。でも先祖を遡れば現在仏教徒の人たちも皆切支丹だったのだ。私は長崎に来るまであんまりわかってなかったのだが、現地の人たちにとっては、禁教令が解かれた後も「隠れ切支丹」と「キリスト教カトリック」はもはや別物であったようだ。長い潜伏期間の中で、神父などの指導者もなかったため、独自の文化に変質された部分を持つ隠れ切支丹の教えを禁教令が撤廃された後も守り続けた人もいるし、カトリックに戻った人、仏教徒になった人もいる。長年神父を待ち続けていたと言っても、あっさりカトリックに立ち返る人ばかりではないのだ。むしろ、ご先祖が色々な事を犠牲にして守り抜いてきた「隠れ」を捨てることができない人たちもかなり多くいたようだ。人間の感情とは複雑なものだなあ・・・。

◎また、教会守さんは個人的なことも話してくださって、自分はシスターになりたかったけど司祭から誘いを受けられなかったので隣の家のお嫁に行ったという話とか、京都のキオスクで働いてた話(笑)とか、中でも一番印象的だったのは、教会守になってからの出来事で、東京から観光に来た一人の若い男性の話でした。その方は、日々の仕事で疲れ切って鬱病になってしまい、「もう死にたい」「いつ死んでもいい」とずっと考えていたのだけど、ふと思い立って五島列島を旅行することにし、そこで立ち寄った久賀島の港近くにある教会で演奏されていたオルガンの音を聴いて痛く感動したのだとか。そのオルガンを弾いていたのが、教会守さんの娘さんだったらしく、数年後にもう一度久賀島に旅行に来たその男性が案内してくれている教会守さんの名札を見て、娘さんの名字と同じであることに気づき、「もしかしてお母様ですか?」と訊ねられたのだそうだ。話によると、その男性は最初の旅行の時に教会を訪れてぼんやりと祭壇に向かっていたら、「生きていかなきゃいけない」と言う“何か”の声を聴いたのだそうだ。それで自分は死なずに済んだと言う。それが本当かどうか、幻聴かどうか、他人にはわからないことだけど、私はこの話を聞いていてすごいなあと思った。


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(牢屋の窄/慰霊碑)

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(説明文)

◎旧五輪教会を出て、次に牢屋の窄へ。ここは絶対に行った方が良いとある人から強く勧められていた。どんな場所かと言うと、筆舌に尽くしがたい迫害があったところなのだ。話に聞いているだけでも息が苦しくなってくるような恐ろしいこと。ほんの12畳の牢屋に200人近い信者が押し込められ(これは1畳あたり17人の計算になるらしい)何ヶ月も立ったまま、排泄もその場でさせられ、食事も1日に2回芋の切れ端をもらえるだけ。説明文が彫られた石には「さながら人間の密集地獄」と書かれていた。200人のうち殉教したのは60人近くで、そのほとんどが子供・女性・老人だった。追悼碑には遺骨が収められており、その前には亡くなった人の中で名前が判明している人たちの石碑が立てられている。どこかの説明に書かれていた(本で読んだ?)んだけど「この牢屋に閉じ込められた全ての人の名前を記録していないことは全く遺憾である」と。本当にその通りだと思う。

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(慰霊碑/名前がわかる殉教者の死因、遺言等が書かれている)

◎初めに亡くなった老人は死体を5日間も外に出してもらえず、密集した人の足下に押しつぶされて牢外に出す時には遺体が平たくなってしまっていたらしい。他の生きている人たちも、背が小さい子供などは両側の大人に押されて地面に足がつかない状態で過ごしていたそうだ。不潔きわまりない環境で蛆が湧き、それに下腹を食い破られて死んだ12歳の女の子もいた。幼児や乳児もたくさんいた。表面的な話を聞いていると、この子供たちは大人の道連れにされてしまったのかと思いがちだが、死んでいった子供の中には、はっきりと信仰宣言をして亡くなった子たちも複数いる。中でも私にとって印象的だったのは、8歳の女の子が「イエス様の5つの傷に対して祈らねばなりません」と言って死んでいったという話だ。これが8歳の女の子が言う言葉だろうか? 信じる、信じないはそれぞれにせよ、信仰において大人も子供もないということを改めて知らしめるような言葉だと思う。26聖人の中にも3人子供がいたしなあ。

◎彼らは結局8ヶ月くらい(確か)この牢に閉じ込められていたそうだ。そして誰一人棄教しなかった。誰一人気が違ってしまう者もいなかったらしい。どうして自分たちがこんな目に遭うのか、と思わなかったんだろうか。その人たちの気持ちを考えようとしても、もはや想像を絶する領域すぎてわからない。殉教者の話をしてくれた東京にいる老司祭が、「今の時代の人たちが禁教時代の人たちのように耐え抜くことができるかどうか」と洩らしていたのを思い出す。

◎私は何も、殉教者たちのことを手放しに讃えたいわけじゃない。それは遠藤周作の言うとおり、誰もが殉教者になれるわけではないのが現実だからだ。また殉教者の話はとかく美化されやすいのであろうことも意識しているつもりだ。それに、私には棄教者の気持ちのほうが想像しやすい・・・。それはほとんどの人に言えることなんじゃないか。それなのに彼らのことがこんなに気になるのは何故なんだろう。普通の人たちから見れば基地外だと思われることもあったであろうこの人たちをただの集団ヒステリーと思うか、それとも他の“何か”に支えられて凄まじい苦痛に耐え死に勝る希望を抱いていたと思うか。そういうことを延々と考え続けるのは決して無駄じゃないと思う。遠藤周作だってそう思っていたはずだ。何故日本ではここまでキリスト教が嫌われるのか、500年以上前に伝来しているはずなのに、信者数が未だに全国民の1%に満たないというのはある意味驚異的な数字ではないのか。

◎エラそうなことを言います。私が遠藤周作が好きな理由は、彼はきっと淋しさに耐えていたからだと思う。日本で日本人がクリスチャンをやるのは時に寂しい。なぜなら、先に書いたように全国の人口に対してクリスチャンの総数は1%に満たないからだ。立派なマイノリティだからだ。さらに、生まれつき人と異なるLGBTの人たちとはまた違い、思想的なマイノリティだから、余計に他人から理解され辛い部分があるからだ。LGBTであることは、最近になってようやくその人自身のパーソナリティの一部として認められるようになってきたが、信仰は違う。よく知らない人からは、「自分には関係ないこと」と完全に切り離されるか、露骨に敬遠されるかのいずれかである。興味をもって話を聞いてくれる人は、それこそ1%にも満たないのではないか。私の場合、実の家族ですらそうなのだ。人知れず孤独を感じずにはいられない。遠藤周作も同じ気持ちだったのではないだろうか。都合の良い妄想かもしれないが、私は彼の寂しさのことを考えると、胸が熱くなり、涙が出る。もし遠藤氏が生きているうちに私が大人だったなら、きっと会いに行っていただろう。ほとんど恋かもしれない。

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(牢屋の窄/新しく建てられた聖堂)

◎タクシーに戻る。運転手さんの話によると、牢屋の窄は世界遺産候補地にすらならなかったらしい。それは牢屋のあった場所に新しい教会を建ててしまったかららしいが、そもそも惨状の現場をそのまま残しておけるわけがないと思う。運転手さんも、「本当は五輪よりもこっちの方が世界遺産になるべきと思う」と言っていた。最後に浜脇教会へ向かう。港からほど近いのだが、旧五輪教会で結構時間を使ったのであんまりゆっくりできない(最初に牢屋がメインだと言っておけばよかった・・・)。とても綺麗な教会だった。港からも見えるので、久賀島にとっては一つのシンボルなのだそうだ。だからできる限り修繕して、今の形を残すようにしているのだとか。

◎港に向かう道すがら、運転手さんに「結構教会が好きなんですね」と言われる(笑)。そして「もう久賀は人がいなくてダメだ」という話になった。実際に住んでいる人はほとんどが老人で、若者は皆都会に出てしまうらしい。子供も小中学校に10人くらいしかいなくて、高校からは福江島に行くので、結局15歳くらいまでしか島にいないんですね。最近は田舎暮らしが流行っていて、都会の若い人が移住するという話もよく聞くけど・・・そういうのはやってはいないのですか? と訊いてみたら、そもそも食っていける仕事がないのだそうだ(運転手さんも普段は島で農業をやってるらしい)。だから子供をここに呼ぼうとは思わないもん、と言っていた。切ない。5年後には住人も半分くらいになってるんじゃないかなあとも言う。一人で住めなくなったお年寄りは施設に入れるようにしていると言っていたので、仕方ないこととは言え、貴重な歴史が詰まった島を守る人がいなくなることは本当に物惜しい。だからやっぱり、旧五輪教会が世界遺産になるかどうかは重要なんだと思う。来年くらいに決まるそうなので、どうやって決まるのか知らないけどぜひ旧五輪教会が世界遺産になって欲しい。そうしたらきっと同じ島にある牢屋の窄ももっと知られていくんじゃないかなあ(2018年に世界文化遺産長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産になりました。すんばらしい。)

◎運転手さんとさよならして再び定期便に乗り、福江港に戻る。あーせっかく来たのに3時間くらいしかいられないって・・・。他にすることがあるわけではないんだけど金銭的に厳しかった。福江島に着き、すぐに長崎行きのジェットフォイルが出発するので船着き場に並ぶ。この時、ロッカーに入れていた大きな荷物を忘れかけるというプチ事件があったけど、ほんと気付いて良かった。一日に数本しか出ない便なので、すぐに取りに戻れるわけじゃないからね。帰りは1時間弱でフェリーに比べるとめちゃくちゃ楽で泣きたくなった。まあ良い経験だったけどさ・・・。


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五島うどん

◎長崎に着いたら15時前ということで遅いお昼ご飯。五島うどんを食す。「あご」という魚でとった出汁であたたかい汁には薬味、冷たい汁には卵黄を溶いて食べる。・・・これはそれほどピンとくるものがありませんでした(正直)。でも見た目はすっごい美味しそうだよねえ。腹ごしらえが済んだので、残り時間で長崎市内で見逃したものを見に行くため、再び浦上へ。遠藤周作の巡礼ガイドに載ってた切支丹関係の遺跡が見たかったんだけどグーグル地図アプリ先生に頼っても全く見つけられず(涙)時間がなくなる一方なので諦めて永井隆記念館へ。


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(如己堂と薄ら映り込むわし)


◎記念館のすぐ横には、永井博士が晩年に書斎兼自宅としていた二畳間の小さな「如己堂」がある。信者の人たちが協力して建ててくれたそうだが、ここに息子娘と3人で住んでいたらしい(どうやって?狭くない??)。ちなみに「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉からとって「如己堂」と家の名前を決めたのだとか。中が見えるようになっていて、こじんまりとした綺麗な間だった。

◎記念館は、年末は28日までの開館でしかも16時半で閉まってしまうのでかなりギリギリな時間だった。でも行ってみて良かったなあ。小さな記念館で、生前は永井博士の息子さんが館長を務めていたそうだ。永井博士は原爆が落ちる以前から放射能医学博士であり、積み重ねた研究の結果、一定量以上の放射能を浴びていたため被爆による白血病になって余命三年と宣告されていたとか。さらに原子爆弾でも被爆して、戦後は執筆活動をしながら投下6年後に亡くなられた。

◎永井博士はたった6年間でびっくりするような量の著書を発表してる。医師としても働けなくなった晩年、寝たきりになってもまだこの手と頭があると思い、主に戦争反対を訴える執筆活動を初めのだそうだ。私は結局ここで原爆資料館では買わなかった「長崎の鐘」を購入した。本ばっかり買って荷物が重すぎて肩がちぎれそう。記念館を出て駅に向かう道すがら、立派な浦上天主堂の鐘楼が建物の隙間から見えた。見納めだなあ、と思ったら、最後にもう一度浦上に来て良かったと思った。

◎電車で空港行きのバスが出る長崎駅へ。ここで時間の余裕が少しあったのでお土産爆買いタイム・・・!!実家と職場と友達用と、お菓子を色々買う。おたくさっていうシーボルトの愛人「お滝さん」から名付けられた紫陽花の形のパイがすっごい可愛いの。職場にはこれと長崎ちゃんぽん煎餅(うまそう)。あとクルス(ポーランド語?で十字架)の復刻版は自分用。福佐屋のカステラは実家用。爆買いってほどでもない。五島の焼酎を父に買ってあげようかとも思ったけど、これ以上荷物が重くなったらさすがに肩がちぎれるので断念。

◎バスに乗って空港に到着。飛行機が遅延しているらしく、またも時間に余裕ができる。そこで気づくが空港にもお土産一通り売ってるんじゃん・・・(普通そう?)。暇なのと、夜ご飯食べてないので豚角煮まんを一個買って小腹を満たす。待ち時間に早速「長崎の鐘」を読み始めた。かなり生々しい。よく考えたら私はきちんとした原爆投下時の記録を読むのはこれが初めてかもしれない(はだしのゲンとか児童書では読んだことあったけど)。永井博士は長崎医大被爆しており、戦時中ということもあって何か事故があったら真っ先に駆けつけて救護できるように日々準備していたようだが、実際は爆心地から程近い場所にあった大学側が被救護者となってしまうという皮肉。落ちた瞬間に野外にいた人は全滅。グラウンドにたたきつけられて絶命している教え子を見た時の永井博士の気持ちや、生存者の証言から明らかになった昨日まで共に働き、学んでいた人たちに様々な死に際の情景。それが本当に生々しくて恐ろしい。原爆によって一瞬で命を奪われるのも悲惨だけれど、衝撃で崩れた建物の下敷きになって抜け出せず、迫り来る炎に生きながら焼かれた同窓生を見た生存者の話が本当に怖かった。死んでいった仲間は、もう自分が逃げられないことを悟って「海ゆかば」を歌った後に「僕は足から焼かれて死んでいく、さようなら!」と言ったそうだ。そんなに毅然としていられるものだろうか? 自分の運命を悟って腹を決めたんだろうか。人焼ける臭いを嗅いだという生存者の男の子は、一生そのことを忘れないだろう。

◎帰りの飛行機は本を読んでいたこともあってあっという間だった。羽田に着き、電車に乗って自宅に帰る。もう肩が壊れそう。でもすごく楽しかったし、以外にも全然疲れず夢中で動き回れたので良い旅になった。以上長すぎる記録終わり。