「いったい神なんか本気で信じているのか」とか「あんたにとって神とは何か」とか、数々のご質問を私が整理して、それに私なりの考えを、できるだけわかりやすく話して、それを文章にしたのが、この本である。
初めて読んだのは、20代半ばくらいの頃。
改めてざっと内容をお復習いしてみたところ、本書は遠藤周作が深く思慮して、言葉を慎重に選び(しかし重たくなったり、小難しくならないように)読者等から寄せられる根本的な疑問・質問・異論・反論に真摯に答えている本である、という感想を持った。
遠藤周作は、自身の日本人的感覚を大切にしつつ、この本を広く日本人に向けて書いているので、自覚的な信仰を持つ人が少ない日本では、やはり主に無宗教者に向けて書かれた本なのだと解釈して良いと思う。
そうした視点で読むと、とても面白い。
この手の内容は、遠藤氏の神に対する解釈が「正しいか、正しくないか」というところに論点が集中しがちなのだけど、私としては、よっぽど間違ったことを言っていない限り、こういう本はあって良いと思う(偉そうなことを言うようだけど)。
馴染みの無い人からすれば、この本はキリスト教の概要書や入門書のようにも読めると思うし、私のように少し囓った人間からすれば、遠藤氏の自分の信仰に対する考察本のようにも読める。
神についてひらすら思考して、それを語る時に相応しい言葉を摸索し(実際キリスト教が発生した地域とは言語も文化も全く違うので、日本語で表現する時にはどのような言葉が相応しいのかと考えることはとても重要だし、神学者や聖職者の間では繰り返し議論されています)、実際にエッセイや小説を通してアウトプットすることを繰り返してきた、その行動自体が私には「ひとりの人間が神と向き合う」大切な行為のように感じられます。
遠藤氏の場合は職業柄もあったでしょうが、一介の信者の中で、ここまで出来る人はなかなか居ないと思うのです。
母性的な“神”
旧約聖書(ユダヤ教)~新約聖書(キリスト教)における神は、「父なる神」と呼ばれることもあり、どちらかと言うと父性的な神であると考えられています。
特に旧約聖書の時代は、イエス・キリストが強調した<赦す神><愛である神>という解釈は乏しく、<絶対的な力を持って人間に一方的に関わってくる(時に厳しく人間を罰することもある)神>として畏れられていました。
その畏れが、父親に対する畏怖にも似ているので、父性的神と言われます。
一方で、遠藤周作が作中で描く神は「母性的な神」であると言われています。
作品が発表された当時は、その表現に否定的な意見を寄せる声も多くあったようなのですが、遠藤氏は執拗に自身の著作の中では、<罰する神>ではなく<赦す神>を描くことに注力し続けています。
<赦す神>とは、「沈黙」で言うならば、棄教したロドリゴやキチジローを赦す神で、「侍」で言うならば夢半ばで自害した使者を赦す神です。
そして、「海と毒薬」「悲しみの歌」の勝呂医師を赦すような神のことです。
赦す、というと酷く一方的なように感じられるかもしれないけど、誰しも自分の生き方に多生の後ろめたさは持っているものだし、中には強い罪の意識を抱えている人もいるかもしれません。
赦す神とは、そういう人たちのことを懐に抱き留めて全面的に受け入れる神のことだと思います。
要するに遠藤氏が書きたいのは、一見傍観者のように見えることもあるけれど、本当は<人間の苦しみに寄り添い共に苦しんでいる神>なのです。
一般的な日本人が“神”と言われた時に抱く印象のように、天変地異の時に奇跡を起こして私たちの命を華麗に救ってくれる神ではない。
ただひたすら、人間の苦しみに寄り添う神。
そんなことに果たして意味があるのか? 絶対的神と言うのなら苦しんでいる人たちを救ってくれ、と思う気持ちも分かるのですが、キリスト教における神は、絶対的(父性的)な面だけでは語れないのです。
だからこそ、遠藤氏は、敢えて父なる神の母性的な面に焦点を当てたのだと思っています。
母への執着と、神への投影
では、遠藤周作が自身の作家人生で、神の母性的な面を描くことにこだわり続けたのは何故なのか?
それは、遠藤氏にとって魅力的に感じられる神の要素が、母性的な面に集約していたからだと言います。
事実、遠藤氏はエッセイの中で繰り返し「俺は母親への愛着が強い男だから」と語っています(どうやらマザコンだった様子・笑)。
遠藤氏にとって、母と、母が選んだ宗教は、容易には切り離しがたいものだったのです。
そして父性的な厳しい愛よりも母親のような受容的な愛に惹かれることは、多くの日本人にとって共通した感覚であることに気付き、作品を通してそこからアプローチしていくことを選んだのだろうと思います。
隠れ切支丹の時代から、日本人はキリストよりも聖母マリアに愛着を寄せ、祈っていました。
一概には言えないですが、その傾向も、父(性)よりも母(性)に寄りすがりたいという気持ちが強い人間の性の表れかもしれません。
苦しみの中で死んだ神
そして、私が改めて目を通して興味深かく感じたのは、遠藤氏が聖書の記述の信憑性について触れながらも、キリストの味わった苦しみについて繰り返し述べていること。
しかし、イエスは絶望して苦しんたがそれを超えて「すべて委ねたてまつる」になることと、みんなは知らないのだから許してやってくれ、と言ったこと、この二つがイエスらしい言葉だと思います。イエスだって手に穴をあけられたら、痛い、と言うのは当然でしょう。人間だからそう言ったとしてもイエスを傷つけることにはならないと思います。
聖書の読み方として、不思議に思われることかもしれませんが、信者達はよくこの「イエスの苦しみに思いを馳せる」という行為をします。
これを、黙想と言うのですが、お祈りのうちのひとつです。
キリストの受難(人々から見捨てられ、鞭打ちに遭い、十字架刑に処された一連の出来事)を想うこと。
キリストは、死の直前に「主よ、なんぞ我を見捨てたまうや」と言い、さらに「(神に)すべて委ねたてまつる」と言って死んでいきます。
祭司たちに捕縛される前にも、ゲッセマネの丘で「父(神)よ、あなたにはすべてのことがおできになります。この杯(受難)をわたしから取り除いてください」と言い、「それでも、わたしの望むことではなく、あなたの望まれることを」と願っています。
この一見して矛盾して見えるような発言こそ、キリストが肉体的には人間であったことを示していると思います。
つまり、キリストの受難における苦しみは、人間の味わう精神的・肉体的に苦痛に遜色ないものであり、産まれてきた瞬間からその運命を背負っていることを思えば、精神的苦痛はそれ以上のものであったと考えられます。
そうした耐えがたい苦しみの前で恐れおののき、血の汗を流しながら「どうかこの苦しみを私から取り除いてください」と祈り、それでも人類の救いのために自らを十字架上にお捧げになった(ここでは、人類の救って何ぞや?ということへの答えは敢えて割愛します)。
その動機は、神が人間に抱く[全く一方的な]愛のためであった。これが、キリスト教の信仰の根幹です。
遠藤氏は、そのことをわかりやすく説明しようとしているように思います。
人が、神を考え始める時
なぜなら、「主よ、なんぞ我を見捨てたまうや」がなければ宗教は始まらないからです。たとえば子どもが白血病で死なんとしている、親が一所懸命お祈りする、しかし、死ぬ。死なないというのが新興宗教で、癌でも治るというのですが、子どもはおそらく死ぬでしょう。神も仏もないものかというのが「なんぞ我を見捨てたまうや」です。そこから本当の宗教が始まります。神も仏もないものかというところから、人々は本当の宗教を考えるようになるのではないんですか。
この疑問に対しても、遠藤周作が端的に、わかりやすく説明してくれています。
よく「宗教は弱い人が信じるもんだ(私には必要ない)」と言う人がいますが、私は、誰しもにとって神の存在は絶対に切り離せないものだと思っています。
ただ、個人の思想や認識の変化を捉えやすい事例が、何らかの困難に遭った前後であるから、「神も仏もない」から信仰が始まることが多いのであって、そうでない事例も沢山あるのです。
要するに何が言いたいかと言うと、宗教は、決し弱い人間が縋るだけのものではないってこと。
そもそも、強い・弱いとか言うけれど、弱くない人間なんているんでしょうか。
孤独ではない人間なんているんでしょうか。
もし「俺は私は、弱くなんかないぞ」って言う人がいるのなら、世の中のほとんどの事が本当は虚しいことに気付いていないだけだと思ってしまうんです、私は(そんなことみなまでは言わないけれど)。
私たちの人生で、絶対に裏切ることなく、自分の命が尽きた後も決して変わることのないものなど、ほとんどありません。
私は、若い時からそういうものがないと「生きていけない」と思っていました。
何故だか理由はわかりませんけど、寂しくて仕方ありませんでした。
趣味も、勉強も、恋も、家族も、本当の意味で私を救ってくれるものではありませんでした。
そういう気持ちは、誰しも少しは持っているものではないのでしょうか。
まとまりないですが唐突に終わります。
しかし・・・遠藤周作は、すごく真摯的且つ軽やかにこのようなテーマを扱ってくださった。
「俺は、“遠藤は人生に苦悩していた”と思われたくないのだ」と言っていた、遠藤さんらしい著作であったとしみじみ思う。
私も偉そうなことばかり言ってないで、見習いながら生きたい。