【深い河】清潔であることと聖なることは別なんです

深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)

戦後40年ほど経過した日本から物語は始まる。それぞれの業を背負う現代の日本人5人が、それぞれの理由でインドへの旅行を決意し、ツアーに参加する。聖なる河ガンジスは、すべての人間の業を包み込む。5人はそれぞれに、人には容易に理解できない深い業を持っていたが、偉大なガンジスにより人生の何かを感じることが出来た。

いつかの夏は遠藤周作祭だった。

先日「私にとって神とは」という本のレビューを書いたら「深い河」のことを思い出したので、過去ブログの記事を一部加筆修正して再掲します。


「深い河」読了 2016.8.9

タイトルについて

“深い河、神よ、わたしは河を渡って、集いの地に行きたい”

 「深い河」という同じタイトルの黒人霊歌があるんだね。最初の引用からもう綺麗。繰り返し呟きたくなる美しさがある。この河は、キリストがヨハネから洗礼を受けたヨルダン川のことを言っているそうだ。黒人文化には彼らが奴隷として抑圧されてきた故の苦しみや哀しみが昇華されていて、生命力に溢れている感じがするので昔から関心がある。

 黒人霊歌の川はヨルダン川だけど、小説に出てくるのはインドのガンジス川。インドについて全く無知だし、ヒンズー教も女神の名前をちょろっと聞いたことあるくらいでよく分からないんだけど、遠藤氏はこれを書くために何度もインドに取材旅行に行ったらしい。すごいな。あらすじを見た時に「何でインド??」と思ったんだけど、ガンジス川を聖なる川と信じているヒンズー教徒たちの行動にはかなり興味深いものがあった。

 ヒンズー教では、死体の灰を川に流すことが、輪廻転生からの解脱を願う行為になるのだそうだ。そしてその灰が流れた川で、多くの人が体を浸したり口を注いだりしている。描写によるといろんなものが混じってミルクティー色になっちゃってる川らしいのだが、比較的綺麗好きな日本人としては、その川に自分も入って沐浴しろって言われたらギョーッと思ってしまうかもしれない。そんな中で、同じように「不潔では?」と尋ねる観光客に対して、「インド人にとって清潔であることと聖なることは別なんです」と説明する日本人ガイドの言葉がとても印象的だった。

 ヒンズー教徒の多くの人たちが、死んだら遺灰を川に流してもらうために、最期が近づくと着の身着のままガンジス川を目指して歩いてくる。つまり、死に場所を求めて歩いてくるのだ。その点においては、余生を迎えて自分の財産をすべて子供に譲った人も、貧困の極みにいるアウトカーストも変わりがない。不思議だなあ。厳しいカースト制度で階級を設けることで社会が成り立っているのに、死ぬ時に目指す場所は皆同じだなんて。



美津子の場合

 この本はいわゆる群像劇なので、誰が主人公という訳でもなく、主要な登場人物である日本人たちがインドの仏閣観光ツアーに参加することになった経緯が各々の人生に触れながら綴られていく。その中でも、私は美津子という女性の話が面白かった。このツアーに参加することになった一人一人が遠藤氏の分身なのかもしれない。そのくらい自分の経験をかなりそのまま投影して登場人物を分けているみたいだ。晩年の作品なので、生涯をかけて考え続けたことの集大成を書きたかったんだろうか。

 美津子には苛々したけど、大津という同窓生(クリスチャンであり、後に司祭になることを志す)の行動がどこか偽善的で奇妙なものに思えて、彼があるとも知れないものを信じているということが許せないような気持ちは分かるような気がした。そして彼女が常に抱えていた無差別な破壊的衝動についても、何をしていても満たされることがない空虚さ故の反動なのかもしれないと思った。美津子は寂しかったと思う、哀しかったと思う。どうしてそんな気持ちになるのか、周囲の人はそれなりに幸せそうなのに、何故自分は何にも満足することができないのか。「私は真に人を愛せない女なのだ」と自分にがっかりする美津子。何故だろう、私はその気持ちがわかる気がした。泣きたい様な気持ちになる。

 ちなみに大津がいつも祈っている聖堂には入ったことがないが、モデルとなっている大学には所用でよく行く。現在は一般公開されていないそうだが、いつか聖堂にも入ってみたいものだと思う。



木口の場合

 木口は戦時中にビルマで戦った、帰還兵の老人である。彼がガンジス川を目指した事情も、とても切実なものだったように思う。

 戦前戦後世代の遠藤氏には、「凄惨な状況の中で命からがら生還した元日本兵たちの経験に心を向けずにいられない気持ちがあったに違いない」と、あとがきで同世代の作家が語っていた。読みながら、あれ? 遠藤さんは兵役なかったはず・・・と思ったのだが、兵役を経たかどうかは実際関わりなく、同じ時代を生き抜いた者としての共感が働くのだろうと思い至った。

 ビルマでは兵士は厳しい餓えやマラリヤで次々と死んでいく。それなのに森の中では長閑に小鳥が鳴き、木の隙間からは美しい晴天が見える。死の道をひたすら行進している兵士たちの苦しみに対して、大自然のあまりの無関心さ。とにかくその情景描写がリアルで、恐ろしかった。殉教していく信者を静観する神を書いた「沈黙」にも通ずるものがある。

 木口はマラリヤに罹ったものの、戦友である塚田の助けにより一命を取り留める。戦後、塚田と再会した木口は彼がどうやら精神を病んでいるらしいことを知り、やがて彼がビルマで自分を助けるために共倒れを避けようとして同僚の死肉を食べて餓えを凌いだと告白される。現実にも起きたのであろう恐ろしい話。戦後、食った同僚の妻と子供に会う機会があった塚田は罪の意識に苛まれ、酒で自分を慰めるようになり、体を壊してしまったのだった。

 遠藤氏はやはり生涯の作品を通して、社会的にも宗教的にも「罪」と言われることをせずにはいられなかった人たちに心を寄せており、その人たちの「罪」がどう裁かれるべきなのか、ということを大命題にしているみたいだ。塚田の苦しみに対して、病院でボランティアをしていたクリスチャンの留学生であるガストンという青年が応える。塚田は死の間際に「生き延びるために同僚を食った。そんな自分のこともあんたの神様はゆるしてくれるのか」と尋ねる。その気持ち。もしも可能性が残されているのなら、赦されたいと切望し縋るような気持ち。遠藤氏は、自分自身に絶望することがキリスト教の言う本当の「罪」だと言う。これはコルベ神父も似たようなこと言ってたし、私を指導してくれた神父も言っていた。「神の赦しの愛を拒絶することが罪である」と。だから、慈悲を乞うことは、何も悪いことではないはずなのだ。

 ガストンは、塚田の問いに「赦されます」と明確に答えることはなかったが、「人の肉を食べたのは貴方だけではない」と応えた。かつてニュースになった、アンデス山脈で遭難した飛行機に乗っていた客員が死んだ乗組員の肉を食べて生き延びたという話を引き合いに出して、「世の中にはやむを得ない罪もあるのだ」ということを伝えたかったのかもしれない。罪というと、犯したその人にのみ落ち度があるように感じられるが、ここで言う罪は犯した人の苦しみそのものだと思う。ニュースでは、自分の死を覚悟した乗組員自ら「もう食料がないから、私が死んだ後に私を食べろ」と言ったそうだ。そしてその言葉のとおりにした客員が数名、生き残った。誰も彼らを責めなかったし、死んだ乗組員は天国に行っただろうと皆が信じた。結果だけを見れば恐ろしい話だけれど、状況と過程に目を凝らすと、そうではないことが往々にしてあるんだと改めて思う。



大津は愚か者なのか

 初めに美津子が大津を「ピエロ」と呼んだのは、美津子が大津に何らかの形で弄ばれたからなのか?と思ったんだけど、違った。まあ美津子にとっては感覚的に然程変わりなかったかもしれない。

 私にはほとんど遠藤氏が書くヨーロッパ的キリスト教というのがよくわからないのだが、大津はそんなに批判されるようなことを言ってるんだろうか。大津は、日本の教会でもヨーロッパの教会でも「お前の言っていることは汎神論的で一神教であるキリスト教に反する」と何度も何度も言われて、最終的には異端者と弾かれ、司祭になるための勉強を続けられなくなってしまった。何故だろう。言い方の問題と、相手の捉え方の問題だろうと思ったのだが、要するに大津はキリスト教義の中でしか神の存在を認めないヨーロッパ的な考え方に反旗を翻していたんだと思うのだ。

 かつてガンジーがそう言ったように、多くの宗教の中に神の存在を感じることを無視できなかった彼は、それをあまりにも正直に自分の指導者に伝えてしまったがために異端とされた。「私が求めたのは教義ではなく玉ねぎ(キリスト)の愛です」という大津の主張を、実際に教会の権威が聞いたらどんな顔をするのだろうか? 何故自然の中に神を感じることが異端とされるのか? かの聖フランシスコも、自由に野を飛ぶスズメを通して神の愛を見ていたし、太陽と月は兄弟姉妹だと歌っていたじゃないか。見つめるべきは理路整然とした教義の正しさだけじゃなく、神様の望みとその本質なのではないか? ということを本能的に悟って訴えていた大津に、現代の教会はどのような反応をするだろうか。

 端から見ると何一つ上手くやり通すことができなかった大津。滑稽でダサくて、何の享楽もなく一体何のために生きているのかわからない男。それなのに大津に対して様々な種類の関心を寄せずにはいられない美津子の気持ちが、私はとてもわかる気がする。物語の終盤で、マナー違反した日本人観光客をかばってヒンズー教徒から袋だたきにされ、もしかしたら死んでしまったかもしれない大津はただの愚か者なのか? キリストへの想いだけで毎日ガンジス川に死体を背負って運び続けた大津はただの愚か者なのか? 私は、大津を突き動かしていた強い衝動の源に、興味を持たずにはいられないのだ。きっと、性愛にも衣食住の安定にも金にも名誉にも取り替えることができなかった大津の衝動の捌け口は、キリスト以外にあり得なかったのだ。それを愚かと思うかどうかは、人それぞれだけど。

 目に見えないものを信じますか、と言われて100%の自信で「はい信じます」と言えなくても、それでいいと思う。しかし私は「信じますか、信じませんか」の二つに一つなら、どうしても「信じます」と言いたい。その望みさえあれば、信仰や信頼は少しずつ芽生えて行くのだと思う。まあ最初にビビッと確信しちゃう人もいるみたいだけど。



何故インドが舞台なのか

 最初は何故と思ったけど、これは読後に少しは分かったような気がした。生と死、清浄と不浄、色々な要素が混沌としているインドにおいて、大いなるガンジス川はすべてを受け入れて流れていく。そしてヒンズー教の女神は、聖母マリアと違って年老いて醜く穢れており、インド人が苦しむ全ての病気にかかっていて、それでもなお萎びた乳房から子供に乳を与えている。大津と美津子の章で何度も出てくる聖書の引用、「彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい/人は彼を蔑み、見捨てた/忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる/まことに彼は我々の病を負い/我々の悲しみを担った。」これはメシアの到来を預言する旧約聖書の言葉なんだけど、言ってみればキリスト教の場合は、聖母ではなくイエス自身にヒンズー教の女神のような人々の苦しみを背負った姿を見出しているということを、この引用を多用することで伝えたかったのかもしれない。

 神は、ヨーロッパ的キリスト教義のように正義と悪を完全に分かつことで裁きを下す存在なのではなく、また正義と悪とが相容れないものと考えているわけでもない。人間の悪の部分さえ救いのためのツールとして活用するのが神だ、と大津は言う。キリストは、メシアを殺したいという悪魔の思惑も、偽メシアを排除したいというユダヤ人の望みも、ユダとその他の十二使徒の裏切りも、すべてを享受して救いを完成させた。これを「摂理」と言います、と私は教わったけどなかなか解釈も実感も難しい話ではあるよね。

 遠藤氏は、キリスト教徒でありながらあえてヒンズー教徒の聖地であるガンジス川を巡る物語を書くことで、大津がヨーロッパの神父に咎められたような汎神論的なことを言いたかったのではなく、むしろその逆、神はただ一つ、普遍的で、永遠で、だからこそ人間の物差しでは測りきれない範囲に及んで働いているのだということを言いたかったんじゃないだろうか。私にはそう読めた。大津も、キリストのことは一貫して信じていたし、決して否定していたわけではなかった。ただただ純粋に最後までキリストを求め続けていた。

 レビューを漁っててあれ?って思ったのは、結構多くの読者が大津の考えに賛同しているんだけど、その理由として「大津はキリスト教だけが正しいと言っていないから」という、いわゆる日本人的感覚で受け入れやすい「宗教の多様性」を大津が(ひいては遠藤周作が)認めているから、と言っている人が非常に多かったことだ。うーん、これは本当に難しい問題で。歴史とか文化的な事情もあるけど、日本人は一神教に対して拒絶反応を示す人が多い。しかし、では宗教とは何ぞや? 神とは何ぞや? ということをきちんと知っていて説明できる人は少ないと思う。「ある意味でキリスト教の冒涜小説なんだろうが、無宗教の私には受け入れやすかった」と書いている人もいて、それには驚いた。そんなバカな・・・。キリスト教義に当てはめられた神だけが正しいわけではないというところは私も賛同するけど、それは何を信じても良いということと同義ではないはずだから。

 信仰って別に自己啓発のためにするものじゃないと思うので(そういう入り口から入る人もいるけれど)、各宗教の教義に似たところがあることにはあまり意味がないと思う。そもそも教義って人として普通に奨められることを並べて説いているようなところもあるので、いろんな宗教が似通うのは当然かなと。良心に基づく最低限のルールが全世界共通であるのと同じことだ。これについてどうなんでしょう? と、代母に質問したことがあるんだけど、その人が言っていた「ベクトルの方向は一緒だけど長さが違うのではないか?」という言葉が、今のところ私にとってはこの疑問に対する一番しっくりくる答えだ。カルト宗教は別として、確かに多くの宗教が同じ方向を向いているように思えることがある。その感覚は間違いないと思うんだけど、神様まで最短距離で真っ直ぐ達しているベクトルはただ一つだ、ということ。多くの宗教が同じ方向に向いていることを感じた上で、私はそこにキリストがいなければ意味がないと思ったからカトリックを選んだのだということ。こういうことは口で言うのはとても勇気が要る。言葉にした途端に何故か陳腐感がしみ出してくるように感じられることもある。なんとも難しいですなあ。



登場人物たちの着地点

 途中から何故か自分の話になってしまったので軌道修正。各登場人物が到達した結論。これに関しては、美津子以外あまりわかりやすい着地点はなかったのかなと思う。ちなみに遠藤氏の転生に関する考えは、私にはちょっとまだよくわからない。どうして最後の最後に転生に興味を持ったのかしら。でも、死んだ人が生きている人の心の中に何らかの形で蘇って残り続けることが「転生」なのでは、という一つの答えを提示してくれたような気もする。遠藤氏はエッセイの中で、そういう理屈でキリストは実際に蘇生ではなく復活したと言えるとも言っていた。復活信仰については私はまだまだ時間をかけて勉強せねばと思うところの一つだ。木口も納得がいく答えを見つけられたのか。沼田はどうか。そう並べて見ると、やっぱり美津子と大津の着地点は物語としても美しかったなあと思う。

 何事も冷めた目でしか見ることができず、本当の愛が何かわからなくて寂しかった美津子が、最後の最後に、他の観光客達は「不衛生だ」と言って入りたがらなかったガンジス川でサリーを纏って沐浴するところがただただ切なくて、美しくて溜まらなかった。長年積み重ねられた孤独からくる切実な思いが滲み出ているようで、最初はいけ好かない女としか思えなかった美津子が終盤ではちょっと好きになっている不思議。

「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」と美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に代わっている。「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。その中にわたくしも交じっています。」

 神? 何それ? 滑稽だわ、なんて鼻で笑っていた一人の女性が、ガンジス川に浸って祈る人たちを眺めながら何者かに語りかけるラストシーン。これはもう祈りと言って良いのではないか。美津子はきっと、最後には大津を愚か者とは思ってなかったんじゃないか。



追記:清潔であることと聖なること

私もいつかインドには是非行ってみたいなあ。

若い頃にインドを放浪していた恩師が言うには、若くてエネルギッシュな頃じゃないと行けない国かもしれないね、とのこと。

そうなんだ・・・。

実際、ガンジス川を訪れて私がそこに入る勇気があるかどうかはわからないけれど、そこで祈っている人々の姿はいつか見てみたいと心から思う。

きっと壮大な景色に違いない。


そして改めて、「清潔であることと聖なることは別なんです」という言葉に心動かされる。

この感情を何と言えば良いんだろう?

シミひとつない、シワひとつない肌は確かに綺麗だけれど、その人に刻まれた時間の証でもあって、私はそれを愛おしいものだと思う。

血にまみれ、傷だらけのキリストこそ美しいと思う。

そういう風に表面的な綺麗さ、清潔さだけでは語れないものってどんな人にもあるんじゃないか。

相応しい表現かわからないけど、そんなことを考えるのです。