【コインロッカー・ベイビーズ】ガゼル、俺は走るぞ


夜通し夢中で読んだこの本は、私にとっては思い出の一冊。

初めて村上龍を読んだのは芥川賞受賞作品の「限りなく透明に近いブルー」でした。

混沌とした世界観に惹かれ、次作として読むのに「コインロッカー・ベイビーズ」を選びました。

1972年夏、「キク」と「ハシ」はコインロッカーで生まれた。2人は横浜の孤児院で暮したのち、九州の炭鉱跡の島にいる養父母に引き取られる。
多感な時代をその島で過ごしたのち、本当の母親を探してハシは東京へ消えた。そのハシを追って東京へ来たキクは、鰐のガリバーと暮らすアネモネに出会う。キクは小笠原の沖、カラギ島に眠る「ダチュラ」を使ってこの世界を破壊したいと願い、ハシはその生まれもった才能と努力でポップスターへと登り詰めた。「本当の母親」に出会えたとき、2人のとった行動は…。


当時社会問題になっていたコインロッカーへの嬰児捨て去り事件を題材にして書かれた物語。

こう書くと、何か物々しい話なんじゃないかと思われるかもしれない(実際私はそう思って敬遠してた)けど、あくまで当時の社会問題に着想を得たというだけで、捨て去り事件について問題提起してどうこう言及するような内容ではなかった。


主要な登場人物は、寡黙ながら抑えがたい暴力性を秘めたキクと、自己の世界に引きこもりがちで繊細な感性の持ち主のハシ。

コインロッカーに放置された赤ちゃんのほとんどが死んでしまう中、2人は辛うじて生き残り、孤児院に入れられて義理の兄弟として生きていくことになります。

辛い境遇で産まれた2人だけれど、彼らの心情描写を湿っぽくイジイジと書き連ねないところが私の好みでした。


舞台は過去とも未来とも書かれていませんが、どことなく近未来SFの雰囲気を感じる退廃的な世界観(2人が里子にもらわれていった場所は軍艦島をモデルにしているという説がありますが)。

この世界観に魅力を感じた人は多いようで、当作品は後のサブカルチャーに大いに影響を与えます。

本当かどうかわかりませんが、漫画「AKIRA」は、「コインロッカー・ベイビーズ」に影響を受けているだろうと言われています。


疾走感のある文章

村上龍の魅力のひとつは、文章から見られる謎の疾走感だと思って止まない。

普通なら、作者の独りよがりになって読者は置いてきぼりになっちゃうんじゃなかろうか? と思うのだけど、村上龍は別で、一体何なのかよくわからない魅力でどんどん作品に引き込まれていき、続きを読み進めずにはいられなくなるのです。

疾走感については、句読点が少なく、会話文であっても鉤括弧をほとんど用いないことから余計にそう感じるのかもしれません(ちなみに私は、比較的新しい「唄うクジラ」は、同じ作風なのに何故か途中で読むのをやめてしまいました・・・)。

この手法のせいなのか、書いていることのエグみが中和されると言うか、深刻さを良い意味で華麗に流して次に進んでいけるような気がします。

その上で、登場人物達のトチ狂った感じもこの書き方によって絶妙に表現されていると思うのです。



気に入っているところ

勢いで読まされるけれども、読後感が美しい。本当に不思議な魅力だと思います。

そういう文章だから、書き留めておいて何度も読み返したい箇所がいくつもありました。

この作品については、いくつもレビューがあると思うので自分が気に入った文章だけ引用して終わりにします。


1.ガゼル

まずは、キクとハシが炭坑跡の島で出会った“ガゼル”と呼ばれる謎の男の言葉。

ガゼルは、キクの心の中に抑えがたい暴力的な衝動が隠れていることを見抜いて、キクに忠告(アドバイス?)をします。

何のために人間は道具をつくりだしてきたかわかるか? 石を積み上げてきたかわかるか? 壊すためだ、破壊の衝動がものを作らせる、壊すのは選ばれた奴だ、お前なんかそうだぞキク、権利がある。壊したくなったら呪文だ、ダチュラ、片っぱしから人を殺したくなったら、ダチュラだ。


ダチュラって何よ・・・って思うんだけど、実際に口にしてみたくなるこの気持ちもまた不思議。

怒りが身体中を犯している時って、もうどうしようもなく、荒んだ哀しい気持ちになりますよね。

そんな時に効く呪文があったらどんなにいいだろう。

キクにとってはそれが「ダチュラ」だったわけで、彼はこの言葉を頼りに、内に秘めた怒りを抱えながらもギリギリのところで辛うじて生きてきたんだろうなっていう感じがする。

結局その後に起こるとある事件がきっかけでキクは怒りを爆発させてしまうのですが、私がこの作品を通して一番好きなシーンは、その事件の後に茫然自失状態になってしまったキクが、再び立ち直る時にまたガゼルのことを思い出す場面なのです。

ガゼル、俺は走るぞ

たったこれだけのシンプルな台詞なのだけど、物凄い爽快感がありました。

キクは走り高跳びの選手なので、走ることは生きることと同義なのだろうと思います。

そう考えると、事件の後で自暴自棄になっていた彼が、立ち直るために走ることは必然なことのように思えます。



2.まるで映画のワンシーンのような

“それにしてもあんた達いい色に焼けているね、サーファーかい?白いスーツできめてるてころ見ると、サーフシティ・ベイビーズだね?店員が金を数えながらそう聞く。ヘルメットの顎紐を締めて、いや違う、とキクは言った。

俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ。”

まるで映画の名場面である。南方の孤島から都会を破壊するために舞い戻ってきたキクが、バイクを買い求めるときに語る台詞である。「俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ」むろん「俺達」はキクとハシだけを指すのではない。キクとハシに共感するすべての読者を指すのである。狭く暑苦しいコインロッカーと、同じように狭く暑苦しいコンクリートの街と、いったいどれだけ違うというのか。俺達はみんなコインロッカー・ベイビーズだ。「壊せ、殺せ、全てを破壊せよ」と囁き続けられているコインロッカー・ベイビーズだ、というのである。

このように言ったのは、旧版の文庫で解説(あとがき)を書いた三浦雅士

三浦雅士はこの作品の主題は「自閉と破壊」だと言いました。

正にキクとハシを表すのに相応しい言葉のように思います。


私も、本編でただ一度、この場面で「コインロッカー・ベイビーズ」というワードが出てきた時に、その情景が目の前に浮かんでくるような感覚を抱きました。

映画のワンシーンを切り取ったかのように、洗練されていて、強烈に心に残るのです。


思うに、こういう作品は、特に村上龍が描く「自閉と破壊」の世界は、現実世界でそれらに侵されそうになっている読み手を助けているような気がするんです。

息苦しいこの世界で、どうやって怒りや悲しみを昇華させれば良いかわからない時、実際に暴力的な衝動に身を任せてしまったり、自分の人生を台無しにするような自暴自棄に陥ってしまったりしそうになります。

そういう時に私たちを救済してくれるのは、やはり文学ではないでしょうか。

それくらい、この小説を読み終えた後の爽快感は強烈なものがあります。少なくとも、私にはそう思えるのです。



3.ラストシーン

何一つ変わってはいない、誰もが胸を切り開き新しい風を受けて自分の心臓の音を響かせたいと願っている、 渋滞する高速道路をフルスロットルで すり抜け疾走するバイクライダーのように生きたいのだ、俺は跳び続ける、ハシは歌い続けるだろう。

ただ「生きる」っていうだけのことが、とても難しいように思える時があると思う。

キクとハシにはそれぞれ得意なことがあって、それが「走る」ことと「歌う」ことだったわけだけど、ラストシーンに来て彼等がきっとこれからもそれを続けていくだろう、という言葉が出てくるのを見て、なんだか無性に嬉しかった記憶があります。

今読んでみても、やはり嬉しい。

何でだろうなと考えたのですが、おそらくそこにまだ見えない希望があるからだろうと思いました。

起きた出来事だけを見ると、決してハッピーエンドではないんだけど、彼等はそれでも生きていくと思うのです。

産まれてすぐコインロッカーに捨てられた、突然裸のまま乱暴に無情な世界に投げ出された二人が「それでも生きていこう」と思っている、それが嬉しいのです。


また、10代の頃に読んだ時に強く心に残ったのは、「渋滞する高速道路をフルスロットルですり抜け疾走するバイクライダーのように生きたいのだ」という文章。

泣きたいような気持ちで、私もこんな風に生きたいと思いました。

何故でしょうね。理由はわからないんだけども、ただ若かったから、というだけで片付けたくはない。

今でもこの文章を読むと、胸にグッとくるものがあります。

「渋滞する高速道路をフルスロットルですり抜け疾走するバイクライダーのように生きたいのだ」

危険を顧みず、自分が信じたことに向かって、ただ懸命に生きる。

そういう生き方に対する憧れは、今でもまだ持ち合わせていると感じます。


これを読んだことないヤツと仲良くできると思えない、そんな小説

最後に、何だか上手く書評を書けないので(この作品は、個々の感性に直に訴えかけてくるもので、何がどう、と言葉にするのが難しい気がするのだ)、他人様の書評を載っけさせていただこうと思う。

古いものなのだけど、コインロッカー・ベイビーズについて、私が心から共感する感覚はこれだ・・!と思った。

何だか好きで、時々読み直してしまうんですよね。

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