【土曜日は灰色の馬】本の世界の中の「私」

最近読んでいる本について。

まだ読み終わっていないのですが、久しぶりに読書をしていて、あ~この感覚忘れたくないな・・・としみじみ思ったのでこの気持ちが鮮やかなうちに書き留めておくことにします。

恩田陸のエッセイ集なのですが、別の著者の小説の後書き等をかき集めて1冊の本にしているのがこの「土曜日は灰色の馬」です。

恩田さんのエッセイは、最初から「エッセイ」として書かれたものよりも、こういうちょっとした文章の方が面白いと思います。

特に、恩田さんが読者目線で作品を語る時の様子が、この人は小さな頃から幸せで満たされた読書生活を送ってきた人なんだなあと思わされます。

実に生き生きと、この本が面白い、あの本の、あの著者のここが素晴らしい、と書き連ねられているので、その文章を読んでいる私もだんだん楽しくなってくるのですね。


それから、恩田さんは決して特別ドラマティックな日常を送っているわけではないと思うのですが、日々の暮らしの中で感性に響いて残るものを大切にしながら過ごしている様子がエッセイを読んでいるととてもよく分かります。

つくづく思うのですが、現代人の生活はどう考えても情報過多だよなあと。

私自身、どうしてもTVやスマホを見る時間が長くなりがちで、そういうものから離れて何も考えずぼんやりしたりただ空想に浸ったりする時間が昔に比べたらものすごく短くなってると感じます。

そういう情報過多な暮らしをすることで、イマジネーションが貧相になるのは嫌だなあ・・・・と思ったり。


本だって情報のひとつではあるんだけど、TVやスマホ等の、ただ眺めているだけでも大量に流れ込んでくる情報とは違うんですよね。

やっぱり、TVやスマホの情報を吸収している自分は「何も感じていない」「何も考えていない」(読書している時に比べると)と感じます。

一方、本を読むことで得られる情報や想像力は、何て言うのかな、文字を追っているのは確かに自分なんだけど、その物語を傍らから見ている自分でいられると言うか、普段自分が抱えている自己中心性から解き放たれているような気分になれる気がするのです。

この感覚を、しっくりと言葉にしてくれていたのが、以下の引用箇所でした。(「一人称で小説を書くこと」に関する恩田さんの持論について)

最近つくづく思うのだが、一人称という形式には、いっぱい罠が仕掛けられている。特に純文学であればどうしても作者と同一視されてしまうし、実際「これは私ではない」と意識しつつも「私」の物語を「私」の視点だけで綴っていくというのは、二重の檻に入れられているようなもので、そこのところに私は強い抵抗を感じてしまう。よほど強い自己客観性を持っていない限り、管理と制御が難しい形式なのだ。
~中略~
また、読む方にも一人称は「共感」という大きな罠がある。近年発達したいわゆるヤングアダルト系の小説は、「僕」や「あたし」が親しみやすい口調で世界への違和感を語り、「ここに私のことを分かってくれている人がいる」という共感を抱くようにできているものが多いが、だからといって「共感」がほんとうに「理解」とイコールなのか、共感できない人は「私のこと」を分かってくれていないのか、という根本的な問題に気付きにくくなっている。
~中略~
世界が一人称になりつつあることは、日々感じている。特に、携帯電話が行き渡って「私」をそのままに世界に一致させることに抵抗がなくなったし、世界の中に居る「私」を俯瞰するよりも「私」という檻の中から世界を見、「私が傷つき」「私が癒され」ることが最優先になったのである。しきりに「私って」と呟く彼らは、そのまま一人称の罠にどっぷり浸かっている。「私」を表現するには、冷徹な自己観察力を必要とすること、「私」の視点でいる限り、いつまでも自分を発見できないこと。「本当の私」をつかむには、何より三人称の視点を獲得する以外ないという、逆接めいた事実を受け入れるしかないのだということを。


実は私自身も一人称の小説は昔から避けがちなところがあります。

何故かと言われると、読者として偉そうなことを言うようですが、三人称の小説に比べると一人称の小説はどこか作者の「ひとりよがり感」が感じられることがあって、それが苦手だったからです。

もちろん全ての一人称小説にそう感じるわけではないですが、読み始めが三人称だと少しホッとする自分がいると言うか。


上記の文章が書かれたのは2008年頃のようですが、その時点で既に昔に比べて一人称で小説を書くことを躊躇しない作家が沢山出てきている、と恩田さんは言っています。

そしてその理由のひとつを【世界が一人称になりつつあることは、日々感じている。特に、携帯電話が行き渡って「私」をそのままに世界に一致させることに抵抗がなくなった】からではないか?と書いています。

それと同時に、【共感】と【理解】の違いが分からなくなっている人が沢山いると。


「共感」がほんとうに「理解」とイコールなのか、共感できない人は「私のこと」を分かってくれていないのか、という根本的な問題に気付きにくくなっている、という文章に私はドキッとしました。

私には、誰かと表面的な会話をしながら、例え本気でそう思ってなかったとしても「それわかる~」って言うのって、簡単に相手と仲良くなれる魔法の言葉だよな、なんて軽率なことをふと考えることがあるのですが、例え軽率な「それわかる~」でも、【共感】してもらえると人間ってホッとするんですよね。自分だってそうだもん。

特に、女同士のコミュニケーションには「それわかる~」が欠かせない場面がある。このやり取りが悪いものだとは思わないけど、少し寂しいと感じることがある。相手の生の意見をもっと聞きたい、知りたいと、心の何処かでは願っているからかもしれない。


一方で、共感してもらえないからと言って、相手が私のことをちっとも理解してくれていないというわけではないのだ、ということを心に留めておかなくてはならない。

皆それぞれ立場が違うのだから、100%の共感なんてあり得ない。そのせいで、自分は孤独だと勘違いして追い込まれてしまうのは悲しい。

注意しておかないと、私自身もそういう罠にはまってしまいそうな気がする。

どちらかと言うと、昔から相対する人との間に年齢の差、性別の違い、育った背景の違い等がある方が一緒に居て心地好い場合が多いので、恐らく大丈夫だとは思うのだけど。


【「私」の視点でいる限り、いつまでも自分を発見できないこと。「本当の私」をつかむには、何より三人称の視点を獲得する以外ないという、逆接めいた事実を受け入れるしかないのだということを。】

一見矛盾しているように思えるこの真理こそ現代人に大きく欠けているものであり、いくら沢山の情報があっても満たされない私達の虚しさを埋めてくれる秘訣なのかもしれない。


改めて恩田さんの視点って面白いなと感じると同時に、特に上記の引用箇所にはドキッとさせられて、やっぱり私にとって読書は人生に欠かせないものだ、と再認識したのでした。